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  近藤信行編
 『山の旅 明治・大正篇』
 『山の旅 大正・昭和篇』

   岩波書店 2003年9〜11月刊
   文庫版 445ページ 457ページ 各700円+税

当代きっての山岳書の目利きである近藤信行氏が、日本の近代登山黎明の明治から昭和にいたる山の文章の中から、それぞれの時代を代表するもはや古典ともいえる六十篇を抽出して、おおよその年代順に並べてくれた本である。途方もない数の文章から選ぶのだから、さぞや気の遠くなるような作業であったろう。結果、近代登山の流れが目次を眺めているだけでも彷彿とするのが編集の妙である。山の文章といえば、すなわち登山家(はなはだ曖昧な呼称だが、我々が何となく思い描くイメージでそう間違いではないと思われる)の文章となるのが現在私たちのもつ認識だが、漱石や茂吉、鱒二など決してその分類には入らない作家や学者、画家の文章をも納めたのは、文学全体に造詣の深い近藤氏ならではの趣向で、そもそもかつては山の未知を探る思いがひとしく色々な分野にあって、今でいう登山家はその中から特化していったものだったのだろう。作家や文章をジャンルで分ける難しさと無意味さを示しているともいえる。

山の文章のアンソロジーはこれまでにもあったが、年代順に並べられたものは、ありそうでなかったし、今や簡単に入手できない文章が多いから、かねてこういったものを読みたいと考えていた人にとっては朗報だった。言わば近藤氏が選ぶところの『年代別山の文章ベスト』と言えようか。どんな分野にしろ、ベスト本は、初心者にとっては手引書となり、手練にとってはどんなものが選ばれているのかが気にかかる、といった具合で、よく売れる企画なのだろう、発行早々増刷を重ねたという。岩波文庫はめったに絶版にしないし、読書人の信頼は厚いから、この本そのものがスタンダードとなる可能性がある。それにしても二冊合わせても千五百円に収まるとはいかにも安い。

図書紹介とはいうものの、このようなアンソロジーに収録されたそのひとつひとつに言及するのには紙幅もなければ意味もない。各々が感想を持てばいいことである。かつて読んだことのある文章でも、年齢を重ねればまた違う印象を持つこともあるだろうし、初めて目にする昔の文章に、かえって新鮮な驚きを持つこともあるだろう。そんな体験がこういった本を読む功徳だと思う。そこでこの際、山の文章に関する私なりの考えを述べることで責を果たしたい。

『山の旅』に納められたのは近代登山が始まって以来残されてきたおびただしい文章のほんのごく一部にしか過ぎないのを思うとき、登山者はなぜかくも文章を残してきたかとの疑問がわく。登山者に文章家が多いのか、はたまた文章家に山を好む人が多いからか。だが、少なくとも登山者に読書家が多いのは間違いはないようだ。このあたりの事情を松方三郎氏は、山岳人は反芻動物に属する、登って楽しんだ山を、語って書いて読んでさらに味わうのであると説明した。では山岳人とはなぜそんなにも反芻したがるのだろうか。   

「読書行為の底には過去とつながりたいという願いがあり、文章を綴ろうとするときには未来へつながりたいという想いがある」と井上ひさし氏はいう。なるほど私たちは読書によって、今この世にいない人とも話をすることができる。彷彿と目の前にすることができる。書き綴ることで、決して会うことのない未来の誰かに自己を知らしめることができる。結局、私たちは文章(大きな意味での記録)があってこそ、この短い生、限られた持ち時間にさからえるのである。では登山者の、未来へ、また過去へとつながりたいという切実な欲求は何に由来するのだろうか。

人間によるルールに基づいて人間相手に勝敗を決める、いわゆる一般的なスポーツなら、さらにそれが衆人に見られる中で行われるなら、競技者の表現はその競技中のみに完結する。記録は数字的に残るだけでよい。よしんばそれを後に文章で表現しようとした競技者がいたとしても、あくまでつけたりでしかない。一方山岳という、人の生活から遠く離れた場所で、はなはだしきはたったひとりによって為される登山では、その行為はほとんど書かれたことによってのみ実在する。時代を切り開いた画期的な登山は、そのことごとくが当人の文章によって歴史に名を刻んでいる。極論すれば、書かれなかった登山は存在しない。書くこと(または書かれること)は登山家たる資格の最重要なひとつといえるだろう。

時間によって淘汰されることなく、今や古典として残った山の文章や本に共通するのは、近代登山黎明期に当然あった初登頂などの華々しい事実もさることながら、山を題材にしたからこそ発揮された人間の精神の有様が描かれていることである。山や自然がみずから語りかけるわけではないのだからそれは当然ともいえる。つまり登山という行為は、いかな肉体の酷使といえども、それをつかさどる精神の働きの方が際立っている。他のスポーツにはありえない質と量の文章や本が、山岳書、または山岳文学と呼ばれる一大山脈を造りだし、今だに造山活動をやめないでいることはその証左で、私たちが登山を単なるスポーツの一分野とされるのには違和感を覚える理由がそこにある。登山はスポーツというよりはむしろ精神活動に近い。だから、登山としては何ら画期的なものはなくとも、すぐれた山の文章は成立しうるのである。

過去の登山記を読むのは、何より先人の思想を学ぶことである。思想もまた書かれて初めて存在する。おのれを未来へとつなげるのは、おのが思想を文章に留めることである。山という底知れぬ奥深さと多様性を持った舞台は、各人各様の思惟の場として汲めど尽きせぬ材料を提供してきた。山に魅せられた人間が何でそれを文章にして後世に伝えずにいられようか。読んで学ばずにおられようか。山の文章が多く書かれ読まれてきた所以である。

さて、山の文章は以上のような理由によって多く残されてきたと私は考えたわけだが、次には、これら過去の遺産の衣鉢をついだり、凌駕する新しい山の文章がこれから誕生するのだろうかと想像せずにはいられない。何十年か後『山の旅』の続篇が編まれるだろうか。

「事実に対する好奇心のみが(文章の)要素であるうちは文学は成立しない」と桑原武夫氏が書いたのは昭和九年である。現代の感覚からすれば、未知の山、つまりは語るに足る事実がまだまだ多くあった時代ですらこういった発言があった。だが私に言わせれば、真に語るに足る事実は、たとえそれのみでも後世に残る文章たりうることがある。それに、いったい山の文章は事実から離れられるだろうか。否、山の文章は宿命的にそれから完全には離れられない。山岳小説がついに山岳文学(仮にそれをおもに登山者だけが読む狭義の文学とすれば)の主流になりえないのはそのせいで、架空の世界最高峰に初登頂した物語がなんで登山者の感動を呼ぶだろう。もし完全に山の文章が事実から離れえたなら、逆説的だが、読者を限定しない、普遍的な文学的価値を持つだろう。

今や好奇心を呼ぶ事実すら枯渇して久しい。多すぎる情報に人々は感動を失った。インターネットの中をのぞいてみるがいい。それこそ膨大な量の山の文章があふれかえっている。だが量の増加は真に上質なものをスポイルする。いかに巷に文章があふれていようとも、歴史に己を刻みつけるような修辞の技術のともなった文章や表現は失われつつある。ひとつの文章(情報)の寿命は恐ろしく短くなっている。こと山の文章に限らず、文学、さらには芸術の力が失われているように感じるのはそのせいだろう。当人以外に何の用もないものが時間を超えて残るはずはない。

山の文章に果たして未来はあるのだろうか。傑出した才能が人間の肉体的な限界を押し上げる意味での登山成果に現れることはあっても、おのずとそれは専門化し、ごく狭い範囲の人が理解できる符号のような記録が残されるのみで、成熟した文章として残ることはますます稀になるだろう。『山の旅』が増刷を重ねているのは、裏を返せば新しい物にはまるで魅力がないからだとしても、さほどひねくれた考えとは思えない。もはや我々には古典があれば充分なのか。

 

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