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 水雲山三峠大権現(1998年10月27日)
              
梅雨時分、日本山岳会の山本健一郎さんから突然電話がかかってきた。正月に山村正光さんらと店に立ち寄られた時、バス停までお送りして、その後礼状を戴いた。それ以来のことだった。

その話というのがこうだった。

山本さんは数人と連れ立ち、都留市の大幡から本社ヶ丸に登ろうとして東電の鉄塔巡視路を辿ったが、霧で径を失い、水雲山と彫られた石碑のある未知の山に辿り着いてしまった。高度計は1550メートルを指していた。狐に化かされたような具合で、なんとか無事下ってきたものの、地図にもないそんなピークがどこにあったのかさっぱり要領を得ず、すっきりしなくて困っている。

そこで僕がその山を知らないだろうかというのである。聞けば山村正光さんや横山厚夫さんにも尋ねたがわからなかったらしい。このお二人が知らない事を僕が知っているはずもなく、三ツ峠の近所に住んでいるからという理由で山本さんとしては藁にもすがる思いだったのだろう。電話口では答えようがなかったが、藁なりに考えて、あとで手紙でこう回答した。

山本さん一行は御巣鷹山から清八峠に至る尾根のどこかに登り着いたのだろうと思われる。2万5千分の一地形図『河口湖東部』ではこの間の径は主稜線をはずれないが、僕が歩いた経験では標高1500メートル付近前後の標高差100メートル位の間は径が尾根からはずれてつけられている。その間に水雲山なる山があるとすれば、それは山本さんの測った高度や明確な尾根上の径らしきものはなかったという話とも一致する、と。

しかし、それは突兀とした岩山だったというではないか。地形図上そんな突起はそこには見あたらないし、あるとも思えなかった。そんなわけでその後も水雲山のことが頭の片隅にわだかまっていた。

8月のある日、何気なくめくっていた『山と溪谷』のバックナンバーにあった三ツ峠の小さな写真が目に止まった。

それは九鬼山の頂上付近から撮った上野巌さんの写真だった。よく見ると御巣鷹山の下にちょっとした突起がある。おや、これは何だろう。地形図ではそんなところにピークはないはずである。その写真には見覚えがあった。山溪の『日本の山1000』にあった三ツ峠の写真と同じものではなかろうか。早速本を見てみるとそのとおりだった。大きくなったその写真ではさらにその突起は明らかだった。今まで何度となく見ていた写真だったのに、それまでは気にもしなかったのである。2万5千分の一地形図では10メートル以下のピークは現れないのだが、遠くから見ても目立つ突起がそんなに低いとも思えなかった。ま、地形図も細かいところには不備もあろう。

地形図のコンターを見ると、そのピークは御巣鷹山から北々西に派生する尾根の標高1570メートルから80メートルの間に隠されていると思われた。それは山本さんの測った高度ともほぼ一致する。これは怪しいと思って、横山さんに暑中見舞いを戴いた時の返事に機会があったら山本さんに伝えてほしい旨書き添えておいたら、早速伝えて下さったらしく、山本さんから、確かにそれは怪しいので11月の末に確認のため再訪したいので一緒にいかがかとのお誘いがあった。

残念ながら仕事の関係で都合がつかず、お断りするしかなかったのだが、自分もその場所を確認したい気持ちも強く、機会を狙っていた。いくら近所でも休みを一日費やすことになる。せっかくの好天の休日であれば自宅の裏山ではなく、どこか遠い山に出かけたいのが人情というもの。そんなわけでなかなか踏み切れなかったのだが、10月の終わりに好機が訪れた。



休みの前日、予報は良くなかった。妻も渓もカゼ気味で山登りの雰囲気ではない。そこで、雨でもなければ懸案をひとりで片付けることにする。久しぶりの一人きりの山となる。わけのわからない山に行くには一人のほうが行動が早くて好都合ではある。

当日は朝から予報どおりどんよりとした天気だったが、今すぐ降り出すということもなさそうだ。クロとともに車に乗って出発した。とはいっても5分とかからずに三ツ峠の裏登山口に着いてしまう。なんとも山の中に住んでいるものだと今更ながらに思う。

三ツ峠に水雲山以外にもう一つの懸案が僕にはあった。それは八丁金ヶ窪沢に隠されているという茶臼の大滝を見に行くことだった。

もう7年前のこと、たまたま古本屋で買った朋文堂の『山と高原』昭和34年の4月号に、伊藤堅吉さんが「富士北麓の山々」と題して書いていて、その中に三ツ峠に茶臼の大滝という秘瀑があるという記述を見つけた。

それには「西川の渓谷から三ツ峠へ登られる方でも茶臼の大滝はまったく岳人に知られていない。〈中略〉落差十数米、水簾は二段になって飛び散り、流水の乏しい御坂山塊には珍らしく隠された秘瀑である」とある。

自分の住んでいる付近の山に関する文献には目を通すようにしているが、確かに茶臼の滝に関するものは見たことも聞いたこともなかったし、河口湖に流れ出る川には母の白滝しか名の知られた滝はない。

いつか訪ねてみたいものだと思いつつも、近所だからいつでも行けると後回しになって、何年もたってしまっていたのである。

三ツ峠裏登山口から八丁金ヶ窪沢を遡り、その途中にあるという茶臼の滝を見物し、そのまま沢を詰め開運山と御巣鷹山との鞍部に出て、まず御巣鷹山に登り、その後、例の突起まで下降しようという作戦である。

霧の濃い日だった。クロを離すとあっという間に視界から消える。クロにとってはこの辺の山は自分の庭である。なんの心配もいらない。クロは山で迷ったことはない。

三ツ峠への荷上げ道は、はじめ金ヶ窪沢左岸に沿っていて、わずかで沢筋を離れる。そこから沢に降りる。右岸に渡って藪を漕ぎ漕ぎ登る。堰堤がいくつかあるのでそのたびに高巻かなければならない。しばらく姿を見なかったクロが、いつのまにか後ろをついてくる。

勤め先の茶店の先代のおかみさんの親が中村茂吉といい、昭和の始め、三ツ峠の頂上に小屋を持っていた。その人がひらいた茂吉新道というのがあって、それはこの沢沿いに続いていたのではないかと思われるのだが、まったくその痕跡はわからない。商売戦略上の道であったらしく、まず自分の小屋へ登山者を引き込もうという目的があったようだ。

三つめの堰堤を高巻いて右岸の高みをしばらく藪漕ぎしてから、そろそろいいかと沢身に降り立つと、そこには長さ10メートルほどの滑滝があった。これも伊藤さんの文にある。

先の方からひときわ大きい水音がする。はやる気持ちで滑滝の右岸を登る。沢は右に屈曲する。小さな滝を今度は左岸から越えるとそこに大きな滝が現れた。茶臼の滝に間違いあるまい。

積み重なった岩の間を何条もの白い筋となって落ちてきた水は最後に大きな滑状の一枚岩に至る。伊藤さんの書くように、滝の少ないこの辺りでは一見の価値はあると思えた。今年は秋の長雨で、もう源流部に近い滝にもかかわらず水量は多い。渇水時にはほとんど水は流れないのかもしれない。霧の中、見上げる滝は幽玄な感じがする。すぐ脇を年間に何万人も登るであろう三ツ峠の登山道があるのが不思議な気がする。古いビールの缶が落ちていたりして、以前は人の訪れもあったのだろう、左岸を高巻いていくと錆びた針金が張ってあったりもした。

滝の落ち口あたりでひょいっと右岸に飛び移る。ここからは、もう小川のような緩やかな流れとなった。まだ降り積もって間もない落ち葉を踏みしめて登っていくと尾根近くではっきりした径とクロスした。山小屋のあるほうから笹子へ向うとき、御巣鷹山の登降を避けるための横手径だろう。今まで知らなかった径である。帰りに辿ってみることにする。

茅戸の原をわずかで御巣鷹山への登山道に出た。見上げるような大鉄塔。いったい三ツ峠にはいくつの鉄塔があるのだろう。おかげでどこの山からでも三ツ峠は同定がいともたやすい。僕がいつも山選びの参考にしている『甲斐の山山』(新ハイキング社)の著者である小林経雄さんによると、こういうのを「悲しきドーテイ」というのだそうだ。

御巣鷹山の頂上で一服していると、うまい具合に都留側の霧が少し晴れてきた。好機とばかりに腰をあげる。

御巣鷹山からは現在の北口ルート、四十八滝へ向う径があるのだが、荒れに荒れて、道標はところどころにぶらさがっているものの径形すら定かでない。数日前の台風のせいか、倒木もやたらに多い。ままよ、とばかりに急斜面を木につかまって東にトラバ−ス気味に下っていったら、木の間越しに目指す突起が見えてきた。

元気百倍その突起のある尾根へ首尾よくのったら、あとはあるかなしかの踏み跡を辿るだけだった。近づくにつれ、それがいかにも山本さんの言うとおりの岩山だということがわかってきて、これが水雲山だとの確信は深まった。

数メートルの岩場を登ると頂上だった。山本さんに聞かされた光景がそこにあった。但し今日は多少なりとも遠望がきく。

鶴ヶ鳥屋山、本社ヶ丸、滝子山、御坂主稜の山々。冬の晴れた日ならば、南アルプス、八ヶ岳、北アルプスの銀屏風が並ぶのではないだろうか。見上げると御巣鷹山の鉄塔が真上にそびえている。濃霧でなければ、山本さん達も「悲しきドーテイ」ができたに違いない。もっとも、濃霧でなければここにも登ってこなかったわけで、まさしく怪我の功名というべきである。

表に「水雲山三峠大権現」そして横に四人の世話人の名、裏に石工と神主の名が彫られた石碑。文政八年とある。文化年間成立の甲斐国志が三ツ峠についてかなり詳しく触れているにもかかわらず、この山や参路の記述のないのももっともである。

石碑を護るようにその大きさにあわせて作られたのだろうトタンぶきの祠は、その中に置かれたブリキでできた箱に「昭和四年七月吉日 登山者芳名簿 三峠北口保勝会」と書かれているので、おそらく同じ時に造られたものだろう。あたりにはその名簿が散乱していた。古くは昭和11年から新しくは同27年までの日付が確認できる。そのほとんどは消えかかっている。麓の、今はない宝鉱山の人々の名が多い。徴兵検査を終えて登る云々の文字も。道の迷ってここに来てしまった人もいたらしい。遠く岡山の住所も。半世紀の歳月を越えてこんな名簿が風雪雨激しいこんな場所に残っていたのはほとんど奇跡ではないだろうか。

触るそばからぼろぼろと崩れるノートの残骸をこれ以上風化させるのも惜しく、持ち帰ることにした。

おそらく、当時隆盛になりつつあった小沼(現在の西桂町)からの三ツ峠登山を横目で見ていた宝村の有志が、かくてはならじと、以前からあった宗教上の参詣路を登山道として整備しなおしたというのが真相ではないだろうか。

宗教登山の時代から近代登山の時代へ、そして全く忘れ去られた現在のこの場所。山の形こそ変わらないが、そこにいたる径の栄枯盛衰に想いが至り、感慨深いものがあった。

山本さん達のおかげでとてもいい場所を知ることができた。それにしても不可解なのは、戦前のガイドブック、鉄道省の『中央線に沿ふ山』には明らかにこの尾根を経て御巣鷹山に達しているルートが書いてあるのに、水雲山には全く触れられていない事である。名簿に多くの人の名が残されている以上、なんらかの資料を参考にしてその人達はここまで登ったはずで、それを見てみたいものだ。

帰りはひたすら尾根を登りあげた。そのうち左から四十八滝ルートと合した。道標があって、右が御巣鷹山へ行くルートだが、前述のとおり、これはほとんど廃道といってよいだろう。カシヤ穴とか猫穴とかいう洞穴がその途中にあるらしいのだが、本によって異同があってよくわからない。茶店の先代の主人の話では昔、御巣鷹山の裏側にある洞穴を天然の冷蔵庫として甲府近在の養蚕農家が利用していたらしい。そこに鳥居を建てて養蚕の神様を祭ったという。その洞穴のことだろうか。

現在のメインルートは御巣鷹山の南の鞍部に出る。立派な都留市の道標が立っている。行きがけにあった横手径まで下って、それを辿ることにする。その径はやがて笹子への径と合した。そのまま下っていくと、山本さんの手紙に書いたように径は尾根筋から離れ、西北西に標高差100メートル余りを下ることになる。笹子へは途中で右に折れるのだが、そのまま山腹を下り続ければ、いずれ裏登山口に戻ることができる。以前、雪のある季節に歩いたことがあって、その時は雪を蹴散らして足まかせに下ったものだ。雪のないこの季節、藪がひどくないだろうかという懸念があったが杞憂にすぎなかった。雪のかわりに降り積もった厚い落ち葉がいいクッションとなって気分よく下ることができた。



目星をつけた突起がやはり水雲山であったことはすぐに山本さんに知らせた。そして11月29日。肝心の山本さんは身内のご不幸で残念ながら参加できなかったが、日本山岳会の山村正光、山田哲郎、山本稔、藤田礼子、保坂恵子の諸氏が大幡川から先人の足跡を追って無事水雲山登頂を果たした。途中、丁目石の発見のおまけもついたという。忘れられた尾根上の峰も久方ぶりにさぞにぎわったことだろう。

後日談がもうひとつある。それは茶臼の滝に起こった騒ぎである。

その翌日、茶店の主人に滝の話をしたところ、地元のテレビ局に勤めている娘にそれがすぐに伝わり、さっそくテレビと新聞の記者がやってきて、また滝まで案内させられる羽目となった。

前日と打って変わった秋晴れの日で、重いビデオカメラや三脚を担いで、大汗をかいての藪漕ぎとなった。よほどその日は話題に乏しかったのか、その時の映像はその夜の地方ニュースのトップを「幻の滝発見」という大仰なタイトルで飾り、あろうことか中央にまで配信されて、全国版のニュースにまで流れた。写真は翌朝の地元紙の一面にカラーで掲載された。

さあ、それから幻の滝の問い合わせが殺到した。毎日のように、見物しようという人々がやってきて、その応対に閉口してついには地図を書いてコピーし、渡すことにした。中には「幻の滝まで車で行けますか」という耳を疑うようなことを聞く人もいて、そんな人が行けば、下手をすると怪我でもしかねない。諦めさせるのに苦労した。

しかし、それもひと月は続かなかった。情報過多の現代ではひとつの話題の寿命はいとも短い。潮が引くように問い合わせも減り、そして、まったくなくなった。

茶臼の滝は秘瀑に戻った。何十年か後、この滝がまた人々の話題にのぼることがあるだろうか。

(山本健一郎さんが日本山岳会の会報『山』に水雲山での顛末について書かれた。山本さんにその続編を書くように勧められ、書いたものが翌月掲載された。この一文はそれに茶臼の滝のことを中心に大幅に加筆したものである。)
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