ふるさとの山 神野山(かんのやま) 

 神野山は、奥三河の最北端にある。愛知県北設楽郡東栄町御園(みその)にあるその山は、標高939mの可愛い山。
 そこは、愛知県のチベットと呼ばれる山奥の村で、私が小学校の新米(しんまい)先生として二年間を過ごした、懐かしい村である。実家のある豊橋からはとても通えない位置にあった。
 御園は、霜月になると村人たちが五穀豊穣を祈願し、鬼の装束を纏って夜通し舞い踊る、「花祭の郷」である。
 
 私を「せんせい」と呼ぶのは、二年生と三年生の複式学級の13人。赤いほっぺの子どもたち。今朝吉さん、君代さん・・・女の子も男の子もみんな「さん」をつけて呼ばれていた。「ちゃん」ではない。小さい子どもも平等に大切にされていると感じたものだった。
 祭りが近づくと「今日は花舞いの稽古があるで、早引きします」と堂々と帰っていく子もいる。大人に混じって夜を徹して舞う儀式の中の「稚児の舞」を踊るのは、とても誇らしいことだもの。
 
 ♪ シャン シャン シャン テーホヘ テホへ
     🎵 テッホトヘ トへへ

 漆黒の闇を縫うように、祭囃子の響きはどこまでも流れてゆく。 祭は、神野山の麓から現れる神子さんのお出ましから始まり、私の居候していた家の前が舞台となって、翌朝みんなが舞い疲れてお開きになるまで、粛々と続くのであった。
 子どもたちの家は、山の南斜面にへばりつくように建っている。峠をこえて通う平沢の集落の子は「きょう は(炭焼き小屋の)こずみをはこぶてつだいをしました」と作文に書いていたっけ。
 峠、尾根道、分水嶺、「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて・・・(宮澤賢治)」という言葉が心に沁みるようになったのは、この頃からである。
 春は、よくスケッチブックを持って山路を歩いた。時には子どもたちと一緒に。山の子たちはウサギのように飛び跳ねて野を巡り、シカのように藪を抜けて駆け降りていった。夏は、生い茂った草に埋もれる山路に腰を下ろし、四囲の山々を眺め、絵筆を運んだ。秋には、神野山や名前も知らない山々の、目の覚めるような紅葉を。冬は、太郎も次郎も眠る雪の山村を描いた。
 
 村の人たちが「今日は自然薯(じねんじょ)が採れたでね」「今日はきのこ飯を作ったでね」と言ってはご馳走を届けてくれる日々。それなのに、みんなの温かい心やつぶらな瞳を背にして、二年後には東京というところへ「絵の勉強をしたいから」と飛び出してきてしまう私。引っ越し荷物を送る手伝いをしてくれたあの山里の人々。

 あれから六十年もの年月が経った。

 住民の減少で御園小学校もとうに廃校になり、現在は「花祭資料館」になっている。今、無形文化財として「花祭」の保存に尽力しているのは、あの時三年生だった克時さんたち。お孫さんが「稚児の舞」を踊ったと、嬉しそうなお便りをいただいたのはいつだったかしら。 神野山は、今、萌黄色に輝いているだろう。
 そういえば、神野山には一度も登ったことがない。山は登るものではなく、山に抱かれて、 その恵みを受け、時に楽しく、ある時にはもの悲しく、四季を暮らす故郷そのものであった。
  
 もうすぐ新茶の季節。豊橋に今も住む姉から、御園から取り寄せたお茶を送ってくれるのを毎年楽しみにしている。渓谷から霧が湧き上がる段々畑を思い出しながら、おいしいお茶をいただこう。
 コロナの予防ワクチンの接種を終えたら、父母のお墓参りに行きたい。
 御園へは、昨年出版した私の絵本『まきばへ』を送ろう。あの赤いほっぺの山の子の、子どもの子どもたちへ届けられたらいいな。