仙丈ヶ岳(6月16日)
大学入学と同時に入部したワンダーフォーゲル部では、五月最初の八ヶ岳での新人合宿が終わると、おのおの上級生が計画した山に小さなパーティーで分散山行することになっていた。新入生だった僕は連れていってもらう立場である。参加することになったのが二泊三日の甲斐駒ヶ岳と仙丈ヶ岳の山行だった。
ところが直前になって風邪をひいてしまい、参加できなかった。学生時代は、そのまま南アルプスに足を踏み入れることすらないまま山登りから遠ざかってしまった。
山登りを再開してからも、県内のいたる所でその堂々たる金字塔を誇示する甲斐駒ヶ岳とは対照的に、山村正光さんが「恥ずかしがり屋さん」と書かれている、山梨県内の平地からはほとんど見えない仙丈ヶ岳は、日帰り登山専門の僕にはいささか遠い存在だった。もっとも、時たま伊那谷から眺める仙丈ヶ岳は実に圧倒的な存在で、人の作った国境などつまらない区分けだが、やはり信州の山かなと思わせる。
北沢峠から仙丈ヶ岳や甲斐駒ヶ岳を日帰りするには、広河原からの芦安村営バスの時間に縛られてしまう。始発が北沢峠に着くのが九時半、最終が峠を出るのが三時、与えられた時間は五時間半。コースタイムでは到底頂上は踏めない。どうしてもタイムトライアルのようになってしまう。夏のシーズンや休日には早いバスがようやく運行されるようになったらしいが、最終の時間は変わらないのだから、まだまだ日帰りには厳しい。最終が五時なら随分楽になるのだが。日帰りなどするなということかもしれない。
それでも数年前早川尾根を歩いた時、栗沢の頭やアサヨ峰から初めて間近に甲斐駒ヶ岳と仙丈ヶ岳を眺め、恋慕の情を燃え立たせ、その翌年ついに甲斐駒ヶ岳に妻とふたり日帰りで登った。
そのまた翌年、平成九年の十月十四日、今度は僕ひとりで初めて仙丈ヶ岳の頂上に立った。
出産予定日が十八日だというのに、妻は家にいればいいものを広河原までついて来た。広河原で日がな一日赤ん坊の服でも縫いながら待っているという。
紅葉シーズンも終わって、北沢峠へのバスにも空席がある。話によれば、その前の体育の日の連休には、何千もの人を広河原と戸台からピストン輸送したという。ほんの少しずれただけでこの静けさだ。実際この日は仙丈ヶ岳に登って北沢峠に戻るまで、出会った人はすでに鍵の閉じられた馬の背ヒュッテの前で会った一人だけだった。
こんなに人気のある山も少し時をずらせば「静かなる山」となる。なにも全国民が土曜日曜に休まなくともよいではないか。安息日の伝統もない国が一律の休日を持つ必要はない。もっと個人で休日を選べるシステムができないものかと思う。もっともそんな議論を聞いたこともないので、多くの人々は渋滞の中にいるのが好きなのだろう。行列をするのが好きなのだろう。
もっとも、たまたま山で知りあった人が、真夏の穂高に登った話をしてくれた時、僕が小屋が混んで大変だったでしょうと聞くと、いやいや賑やかで楽しかったというのを聞いて、山においても自分とまったく正反対の考えをする人もいるのだなと、わが認識を新たにした。誰もが静かな山が好きになったら、静かな山などなくなってしまうかも知れぬ。
僕は極端に暑がりで汗かきなので、涼しいと調子が良い。大滝の頭の上で森林限界を越えると一気に寒気が風と共にやってきてますます調子が上がる。
登るにつれ背後からせり上がってくる甲斐駒ヶ岳に後押しされるように小仙丈ヶ岳に登り上がると、まさしく突然目の前に拡がった雄大な小仙丈カール。今まで見たことのない角度からの北岳と間ノ岳の姿。なんとも贅沢な眺めの中を仙丈ヶ岳の頂稜に達すると藪沢カール側を辿るようになって、間もなく頂上だった。
三千メートルの稜線で繋がれた相変わらず大きい北岳と間ノ岳。初めて近くで仙丈ヶ岳の膨大な山容を眺めた早川尾根。一日で駆け抜けた高嶺から辻山に連なる鳳凰山脈。憧れの鋸岳の上には親しい八ヶ岳が浮かび、たおやかな奥秩父は模糊と連なる。そして仙塩尾根の彼方には塩見岳をはじめまだ知らぬ赤石山脈が霞んでいる。
ここまで二時間余りで着いてしまった。早く着けたので、頂上と、風が強いので下って昼食を摂った藪沢カールで一時間を費やすことができた。そのあと甲斐駒ヶ岳を正面に見ながら藪沢に沿って下った。大平小屋から北沢峠へのわずかの登り返しが辛く、さすがに足の筋肉が音を上げていた。
その夜中、仙丈ヶ岳へ登った祝盃の酔いと疲れで布団にも入らずうたた寝をしていた僕は妻に叩き起こされた。破水したという。すぐに事態が飲み込めないが、それでも慌てて用意をすると、すれちがう車とていない深夜の峠道を産院目指して飛ばした。
翌朝、娘は生まれた。
女だったら「渓」という名前に決めてあったが、仙丈ヶ岳に登った翌日に生まれたのだから、なにか他にいい案はないかとも考えた。しかし、ついに浮かばなかった。名字もついでに変えられるのだったら「仙丈渓」としただろう。この名前は将来、娘が銀幕にデビューすることになった時にでも使ってもらおう。なさそうだけれども。
ともかく広河原で産気づかなくて良かったというしかない。
そんな仙丈ヶ岳だから渓を連れて再訪するのは、言わば僕たちにとってのお宮参りみたいなものだ。本来のお宮参りなどろくにしなかったが僕たちの神様は天上にこそ御座す。
しかし、最初は栗沢の頭に登るつもりだった。北沢峠から仙水峠を経て周遊しようと思っていたのである。これなら最終バスまでに余裕で帰って来られる。ここから眺める甲斐駒ヶ岳は絶品だ。
ところが広河原に着いて、バスを待つ間に考えが変わってしまった。あまりにも天気が良い。大樺沢の雪渓と新緑の組み合わせが美しい。まさに高山の初夏である。それでは北岳に登るか。さすがにそれは考えない。突然思いついて登る山ではない。折しも広河原からは盛んにヘリコプターが荷上げをしている。煙草を一本吸う間にもう荷を降ろして帰ってくる。行き着く先は白根御池か、はたまた肩の小屋か。ああ、全てが萌え出るこの季節を三千メートルに登りたい。そこで仙丈ヶ岳が急浮上してきた。去年広河原で待機を余儀なくされた妻にも異存があろうはずもない。
さて問題は、渓を背負って時間内に登れるかということだが、そこは深く考えず小仙丈ヶ岳だけでも登れればよしとすることにした。バスを降りるとほとんどの人は甲斐駒ヶ岳の方へ向かうようだ。仙丈ヶ岳への登山道に入って行く人は少ない。僕が渓を背負って歩き出す。最初は緩急が交互に現れて歩き良いが、そのうち急登の連続となり、音を上げる頃少し傾斜が緩んで大滝の頭に着く。藪沢への径を分けるが崩れてでもいるのか木の枝が立て掛けて通行止にしてある。ここまで去年とあまり変わらない時間で着いてしまったのでおおいに気をよくする。
森林限界に飛び出ると去年見た風景が季節を変えて目の前に出現した秋の風景はいかに美しくとも滅びゆく悲哀を感じさせるが、枯葉色が初初しい緑に変わるこの季節の有様はこれから成長していく赤ん坊にこそふさわしい。去年は見えなかった富士山が、妻が妊娠七カ月で登った小太郎山の上に顔を出している。
最初の目標の小仙丈ヶ岳には二時間あまりで着いた。ここでのんびりしていけばいいものを、目の前に悠然とわだかまる仙丈ヶ岳を見てしまうともういけない。あれに登らずば帰れないという気になってくる。頂上を踏んでいない妻も思いは同じ、二言三言で意思は決定する。小仙丈ヶ岳では座りもしなかった。なんとももったいない話ではある。
すでに去年には仙丈ヶ岳の頂上にいた時間となっている。急がねばならない。妻が渓の背後のただならぬ異臭に気づく。すでにオムツの中は阿鼻叫喚のちまたと化しているらしいが、換えるのも頂上までしばらく待ってもらう。渓は空腹には弱いがオムツ汚れには滅法強い。これは鈍感ということか。ともかくも下界の異臭騒ぎはなにかと物騒だが、天上の異臭騒ぎはごく平穏無事に、ただ芳香を三千メートルの大気に撒き散らしていくのみである。
小仙丈ヶ岳からは去年を上回るペースで頂上に着いた。直前で仙塩尾根へ下っていく人を見たが、僕たちが到着した時には誰もいなかった。
それをいいことに絶頂でのオムツ換えの儀式を取り行う。今日この日に日本広しと言えども三千メートルの山の上で尻をさらしている0才児はどこにもにもいまい。富士山、北岳、間ノ岳の三巨人が一列並びにその作業を見守っている。
雲は多くなってきたものの、まずは最高の眺望といっていいだろう。中央アルプスや北アルプス方面は隠れてしまったが、曾遊の甲府盆地を巡る山々が青く遠ざかる。そのいちいちを双眼鏡で覗いて、その頂上、その尾根、その稜線に挨拶がしたいが時間がない。このまま一泊できればどんなに良いことだろう。風もないし、半袖で充分な陽気だ。心ゆくまでここで過ごすに違いない。
藪沢側から男性が一人頂上に登って来た。話すうち、伊那谷の人でやはり日帰りらしいことがわかった。その人に渓が高山病にはならないかと聞かれたが、そんなことは言われるまで考えたこともなかった。確かに三千メートルは初めてだが、いたって元気そうで、食欲をそのバロメーターとするなら、針は快晴の方に振れっぱなしである。これには生まれた時から千三百メートルの高地で暮らしていることが多少なりとも影響しているかもしれない。
名残惜しいが、もう最終バスまで二時間あまりしかない。食事もせずに下山とする。往路をそのまま下るのが最も早そうなのでまずは小仙丈ヶ岳へ向かう。途中わずかにある登り返しが苦しい。小仙丈ヶ岳は北側を巻いて這松帯を真正面に甲斐駒ヶ岳を見ながら下っていく。
大滝の頭で、何とか最終バスに間に合う目星がついたので小憩してパンをかじる。それでもそのあと必死で下ったにもかかわらず、北沢峠に降り立ったのはバスの出る五分前だった。頂上を出てから、ひとりの人にも出会わなかった。
バスを待つ人々は結構いて、好奇の目の中で渓にミルクをやっていると村営バスが登って来た。渓はこのころ「キー」とも「キャー」ともつかぬ奇声を発するようになっていた。遠慮がないので赤ん坊といえどもあなどれぬ音量だ。腹が一杯になってご機嫌になった渓は満員のバスの中でそれを連発。渓や妻と離れて座った僕は素知らぬ顔で野呂川の流れを眺めていた。
ただならぬ奇声を発する赤ん坊を乗せたバスは一路広河原へとひた走った。
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