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           お坊山(12月15日)

二万五千分の一地形図『笹子』は、同じく『川浦』とともに、僕の持っているなかではもっとも朱線の多く入った地図である。

『川浦』には概して明るい高原情緒あふれる山が多い。それに対して『笹子』に含まれる地域は、山どうしが迫って少し陰欝が感じがしなくもない。それは山梨県の国中地方と郡内地方の印象の違いともいえるだろう。

僕の好みで甲府盆地を巡るあっけらかんと明るい国中の山々に出かけることが多いが、それでも『笹子』にこんなに朱線が増えたのは、ちょっと寝坊したときでも簡単に出かけられる距離の近さがあった。それに大菩薩連嶺南端にあたるこの地域には、山歩きを楽しみとする者なら一度は登ってみたい山も多い。地域の印象は人里の雰囲気から与えられることが多いのであって、登ってしまえば暗い山などない。登山とはすなわち空に向かって明るい場所を目指す行為なのだから。

朱線が増えてくるとさらにそれを増やしたくなって、登り残した山や歩き残した尾根筋はないかと地図を眺めることも多くなる。クリオを連れひとりで、大谷ヶ丸西稜、同じく北西稜、米背負峠への径などに朱線を入れていったのは渓が生まれて間もないころだった。春先に渓を背負って登った古部山もこの地図の範囲だ。

お坊山から東南に棚洞(一二○一.四)を経て延びる尾根は随分以前から目をつけていながらも歩き残していた尾根のひとつであった。

お坊山自体は、もう十年近く前の一月、笹子側の旧道入口に車を置いて笹子雁ヶ腹摺山を皮切の縦走で頂上を踏んでいた。お坊山から大鹿峠へ雪の斜面を駆け下った。田野に着くころにはもう暗くなっていた。初鹿野駅から電車で笹子駅に戻り、車を停めた場所まで寒い国道をトラックに怯えながら歩いたのがやけに遠かったのを覚えている。

車を使った登山では同じ径の往復となることが多い。行きと帰りでは見ている方角が違うから景色も変わる、とこれまで書いてきたものの、これはすこし負け惜しみかもしれぬ。うまく周遊コースを設定できればそれにこしたことはない。

『笹子』図幅にある大菩薩連嶺南端の山、滝子山は中央道を渡ったところにある桜公園に車を置き、南稜を登って北側から大鹿川に沿って下ってくればうまく周遊できる。余力があれば大谷ヶ丸を組み合わせることもできる。南稜の登りが爽快なので季節を変え何回も歩いたものだ。

お坊山から棚洞を経て延びる尾根はこの桜公園あたりで終わる。よって、ここに車を置いて大鹿峠からお坊山に登り、その尾根を下ってくればうまく周回できるというわけだ。


暖かい朝だった。『笹子』の山ならばそうあせってでかけることもない。下っていく甲府盆地の空には雲が多いが、まずは天気の崩れはなさそうだ。

クリオも当然一緒だ。滝子山付近は禁猟区ではないのだろう、猟期にハンターを見かけたことが何度もある。犬を放すのはなんとなく心配な気もするが、ハンターもたいてい犬連れならば犬を誤射することもあるまい。むしろ人間のほうが危ない。獲物を追うでもなく、ただ藪の中をさまよう僕のような物好きは、むしろ山のけもののほうに近い存在なのだから。

お坊山から降りてくる尾根の東の端で送電線が南北に乗り越している。送電線の下にはたいてい巡視路があるはずだから、尾根を下ってきたらそれを辿って戻ればいいと、桜公園から車をさらに林道を奥に入れて送電線が横切っている付近まで行ってみた。しかし、そこは大鹿川が大きな堰堤にせきとめられて湖のようになっているところで、とうてい向こう岸に渡れそうになかった。頭の上には送電線が見えるので巡視路があるとすればこの辺りにあるに違いないのだが、結局わからなかった。

すなおに尾根の末端まで辿ることにして、桜公園に戻って車を置き、渓を背負って歩き始めた。ところが、滝子山南稜を横断する林道が分岐するところまで歩いたところでカメラを車に忘れたことに気付いた。

以前滝子山に登った時も、やっぱり桜公園に停めた車にカメラを忘れた。その時はもう相当登っていたので諦めたが、渓の写真を撮りたい今日は取りに戻らねばならない。荷物を置き、ひとりでまた林道を下った。

それにしてもカメラを忘れたことはその時しかないことを思えば、この土地にカメラを忘れさせる地縛霊でもあるに違いない。取りに戻って帰るのに三十分近くも費やしてしまった。

平成六年修正測量の僕の地図では、この先径は破線となるが、実際にはさらに林道は続く。ここを訪れるたびそれは奥へと延びていて、ずみ沢沿いに続く滝子山への径を分けしばらく歩いたところで、この日も延長工事中だった。いったいどこへ続くのだろう。田野側に雨沢に沿って延びてくる実線がある。いずれ稜線を乗り越してそれと手を結ぶのだろうか。

工事のために新しく作られた迂回路はいつしか古の峠径となるが、沢の中を細々と続くその径は半ば廃道然としている。しかしそれもわずかで、沢をぐるっと回り込むと、なんとそこは整備された園地となっていた。平坦にならされた小広い土地の回りには土留めが施され、丸太を半割にしたベンチまでしつらえてある。なんだか拍子抜けしてしまう。まずはベンチに座って一服。こういう謎の整備を何と考えればいいのだろう。

ここからは林業用のキャタピラー作業車が通れる道だった。道はすぐに尾根伝いとなり、巡視路も兼ねているのだろう、送電線の下を忠実に続く。キャタピラー道は南側に何本も分かれ、その作業の結果、林はすっかり風通しが良くなっている。途中にブルーシートをかけた作業車も置いてあった。まだ作業が終わったわけではないらしい。

大鹿峠に着く。峠といっても田野側へ下る径はクランク状に続くので、ただ稜線に出た感じがするに過ぎない。やれやれ峠でひと休みといった風情はない。向う側がガレているせいか、なんとなく殺伐とした感じも受ける。

さて、お坊山へはまだ標高差三百メートルあまりを残している。前回はほどよくクッションがわりになる雪を蹴ちらし、これが登りならさぞ辛いことだろうと思いながら下った急斜面を、こんどは実際に登ることになる。

一歩一歩じわっと地面に足の重みをかけていく。ハイキングというには重すぎる荷物が肩に食い込む。先を行くクリオは上の方で我々が登ってくるのを待っている。我々が無事近づいてくるのを確認すると、また一目散に先へ行ってしまう。

登路の東側にはキャタピラー道がつかず離れず登ってきていて、結局それは主稜線まで達していた。間伐のおかげで東側の林はすっかりまばらになって見通しが良すぎるほどである。もっぱら間伐は大鹿峠から主稜線へ達する尾根の東側で行われているらしく、西側には作業の形跡はない。

調子よく、三十分あまりでお坊山西峰の東端に登り着いた。ここで初めて登山者と出会った。初老の母親と青年の息子といった二人連れで、山では珍しい組み合わせである。

頂上へは一投足だった。もう十年近くも前になると記憶も薄れて、懐かしい頂上という感じはしない。前回は先を急いでいてほとんど休憩しなかったせいもあるだろう。ともかく今回はここでゆっくりと昼食を摂らせてもらおう。なんといってもここは今日の最高地点なのだから。クロもかたわらに寝そべっておすそわけを待っている。

甲府盆地は白く霞み、遠く雪を頂いているはずの山々は見えない。京戸山や岩崎山が懐かしい姿を近くに連ねている。そして毎度お馴染みの、山と高さを競うかのような大送電鉄塔。

リニア実験線がらみなのだろう、笹子に大変電所ができてもう久しい。そこへ向かう送電線が山を越えてきているというわけだ。勝沼あたりから見る笹子雁ヶ腹摺山にはまるでネックレスをしたかのように送電線がかかっていて「悲しきドーテイ」の最たるものになっている。これでは『笹子リニア送電線ヶ腹摺山』と改名したほうが見た目にかなっている。ついでに言えば、都留市の九鬼山もいかなる偶然か頂上三角点の真下にリニア実験線のトンネルが掘られていて慶賀の至りである。その栄誉を名前にこめて『リニアヶ丸』と改名しよう。

華々しく始まったリニア新幹線計画も実験線の段階で、はや暗雲垂れ込めているように感じるが、ちょっと前には考えられなかった事が現実になっていることからすれば、人間のあくなき向上心はいずれ計画どおり東京大阪間を陸路一時間で結ぶのかもしれない。

そうなれば大阪の人がリニアに乗って大菩薩嶺に日帰りで登山にくるのだろうか。もっともそのことに是非はない。新宿から高尾山への日帰り登山も、大阪から大菩薩嶺への日帰り登山も、交通機関の利用なしには有り得ないという点で何ら質的な差異はない。

「狭い日本そんなに急いでどこへいく」は一昔前の交通安全標語だが、急いで行く先などなくても急ぎたいのが人間である。これは人間の命に限りがあり、しかもそれを認識していることから生じる本能のようなもので、あらゆる交通機関、通信手段、記録手段はすべて一種のタイムマシーンだといえる。しかし、それはかりそめのタイムマシーンにすぎない。

いつもは車でしか通ったことのなかった道を歩くことになったとき、いったい車の窓から何を見ていたのかと疑うほど新鮮に感じることがある。結局人間は自らの肉体が持続的に出せる速度、すなわち歩く速度以上では物を本当に見たり感じたりできないのである。それならば交通機関で縮められた時間は自分の物といえるのか。

ついこのあいだまでは実際にいた、生まれて死ぬまで山の向こうを見たことがなかった昔の人と、かりそめのタイムマシーンを駆使して世界中のあらゆるところに出没したり、家にいながら世界中のあらゆる情報を得て見聞を広めている現代人とどちらが幸福なのだろうか。

「知らぬが仏」とはなんとも深遠なことわざである。僕は知識や経験が本当に人を幸せにするのか疑っている。

山の上で母のからわらに座り、無心にはしゃぐ渓。大人が乳幼児に愛らしさを感じるのは彼らが無知であることに尽きるのである。知識も経験もないが憎しみも悲しみもない。人の幸福の姿がここにある。しかし、この考えはなんとも矛盾に満ちた苦しい考えである。好むと好まざるにかかわらず、貪欲に知識を吸収していくのを人の成長という。

ええい、もう思考の堂々巡りはよそう。山に自分の思う幸福があるならば、ただ山を歩こう。かりそめのタイムマシーンだろうがなんだろうがそれに乗って、せめていろいろな山を自分の足の速さで確かめに登ろう。容赦なく過ぎ去っていく自分の時間の一瞬をその山に捧げることで諒としよう。

さあ、充分頂上を味わった、そろそろ下ろうかと思うころ時計を見ると大抵一時間位が経過している。日帰り登山ではその位で里心がつくのかもしれない。大鹿峠への分岐へいったん戻って、お坊山東峰へ登る。

ここもすっかり風通しのよい頂上となっていて、林越しに大菩薩連嶺が北から南まで見渡せる。ベンチもあって、これで道標でも立っていればまるで家族向けハイキングコースである。まず一般のガイドブックには載らない場所だとは思えない。

棚洞に向けて下っていく尾根には伐採された木が進路を邪魔して歩きにくい部分もあったが、尾根が細くなるにつれそれもなくなり、ごく歩きやすい径となった。北側は相変わらず作業道が入り乱れ、間伐がすごい。

ちょっとした突起は南側から巻いて棚洞にたどり着いたときには渓はすっかり昼寝状態にはいっていた。起こさないように三角点の脇にそっと降ろし、一服する。振り返るとお坊山がどっしりと大きい。

ここからの下りが白眉だった。素晴らしいミズナラやブナの林の中に一直線に延びる落ち葉の深く積もった尾根径。北側にはキャタピラー道の痕跡があるが、それはもう古いものらしく半ば消えかかっている。

一○一五メートル付近に地図にはない小ピークがあって、ベンチがしつらえてあった。それにしても滅多に人の訪れもないところにベンチが造ってあるのはなぜだろう。作業をした人が奉仕で造ったわけでもあるまいに。ともかく、ここからは滝子山が恐ろしく立派に見えた。

昭文社の地図ではこのあたりが入道山となっている。土橋里木編著『甲斐の伝説』(第一法規)によると、「大月市笹子町。阿弥陀海道の北にある嶮山をいう。むかし村人が薪取りに行った時、身長三メートル余の大入道が現れて、村人を右側の小沢に連れこみ、七日間あまり出さなかったという。今この沢を牢場と呼んで、人が踏み入ることを嫌っている」とある。右の小沢というのがよくわからないが、すぐ下を高速道路が通ずるようになっては、もう入道もうかつには姿を現すわけにはいくまい。

途中、北にそれていく踏み跡があって、それをたどるのが正解にも思えたが、最後まで尾根筋を歩くことにする。

送電鉄塔の立つ場所で巡視路を捜すがわからず、なおも尾根を進む。はっきりしていた径はいつしかほとんど踏み跡同然となり、地図の等高線の表すとおり斜面が急峻になると、さらにその踏み跡すらわからなくなった。渓を背負っていなければ「ままよ」とばかり滑り降りるような斜面も慎重にならざるを得ない。右に寄りすぎると中央道の真上に出てしまう。意識して左寄りに下っていった。

下に祠のようなものが見えた。木につかまりながらやっとのことでそこに降り立った。山の神だろうか、小広く整地されてはいるが、久しく人の訪れはないように思えた。そこからは細々とした径があって、桜公園の脇にある畑に出た。畑の隅を歩いて公園の車に戻ると、クリオがなんと遅い連中だろうという顔をして待っていた。

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