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            瑞牆山(6月9日)

前日の予報も悪く、朝起きるとやはり曇り空。とりあえず行き先を八ヶ岳周辺もしくは奥秩父と決めて、そちらの方向に車を向けた。登山中止となりそうな気配もあったので、クリオはお休みだ。

いくら日帰り登山でも、目標は前日、遅くとも家を出る時には決まっていないとよろしくない。一つの山に登るということは、とりもなおさず人生の貴重な一日をその山に捧げるということと同義なのだから、その日になっても悩んでいるようでは山の神様にも失礼というものだ。

以前は登りたい山が目白押しに並んでいたので、山を決める苦労などなかったが、日帰りに限定すれば段々と底をついてくる。六月ともなれば、緑も濃くなっていて、おいそれと藪山に向かうわけにもいかない。赤ん坊を背負っていればなおさらだ。

いや、実は日帰り圏でも登り残している山域はあって、それは僕の場合、大月から上野原近辺の山々で、これは主として車でのアプローチをするしかない僕にとって、山あいで道が狭く車の駐車場所を捜すのに苦労することが多いのが原因で、これは結構気が重いものなのである。

それに、無類の暑がりの僕にとっては、六月ともなればこの辺の山は対象外となる。僕が山に登る理由のひとつに涼しい所へ行きたいというのがあるから、この季節、住んでいる場所より標高の低い山に登る気はしない。

一宮御坂インターチェンジから高速に乗り、双葉サービスエリアで朝食を摂る。まだ、決まらない。梓山から甲武信ヶ岳へ登ろうかと思ったが、もう、少し時間が遅い。そこで瑞牆山が浮上してきた。

前回の赤岳で、登山口まで行って諦めた時には心がその山に残ると書いたが、瑞牆山も富士見平まで登って諦めたわけだから、次の週に金峰山に登って埋め合わせしたとはいえ、それはあくまでも金峰山で、瑞牆山の神様には欠礼をしたままだ。

しかし、また富士見平経由では芸がなさすぎるので、一度下ったことはあるが、まだ登ったことのない黒森側から、不動滝を経て登ることにした。

以前不動滝へ下った時は、瑞牆山荘に停めた車を取りに戻ったわけだが、小川山林道はともかく、舗装路に出てからのゆるい登りが無暗に長く、閉口したものだった。そこで今度逆コースで一周する時は、最初に瑞牆山荘の前に自転車をデポしておけばいいなと考えた。そうして不動滝にむかう林道が登りになり始める所へ車を置いていけば、あとでスイスイと自転車で坂道を下って、車を回収すればいいわけだ。

ところが急な決定とてそんな用意はない。それどころか僕は自転車を持っていないのである。でも、この方法はいろんな山で使えそうだ。登りは長くなるが、僕は登山で軽減すべきなのはむしろ下りのほうだと思っている。車利用で周遊コースを辿りたい時には有効かもしれない。

そんなことで今回は心ならずも小川山林道からの往復とする。

小川山林道に入るとすぐ未舗装路となる。今は高原野菜の畑となっているのが昔の松平牧場だろうか。車の腹をこすりながら行くと、道は二手に分かれる。直進するのは、もはや甲信県境に達しようかという黒森林道で、ダンプが何台も入っていくところを見るとまだまだ延長中なのだろう。尾根上には各地の景観をことごとく破壊した大送電鉄塔が威容を誇っている。

釜瀬川に沿って延びる小川山林道は右に折れる。

原全教さんによれば、このあたりにはすでに昭和の初めには広い道が登ってきていたようだ。『奥秩父続篇』でその林道を「これがあたりの森林全滅の先驅であると思へば、そゞろに寂しくなつてしまふ。この邊は甲斐の國として、最も多角的な、そして整備した自然美の地であるから、當局はなにを措いても保護の天職を思はなければならない」と書いている。今現在このあたりに広がる森は、もう以前のものではないのだろう。

その當局が、ここと尾根ひとつ隔てて南の天鳥川沿いで森を切り開いて立派な舗装路を造り、何やらせっせと整備している。全国植樹祭の準備をしているらしいのである。もともと森林に恵まれたこんな場所で新しく道を開いて植樹祭でもあるまいに。全教さんも雲の上で、さぞやお嘆きであろう。

林道の分岐地点が広いので車を置いて歩くことにする。おおきな堰堤のある林道終点までおよそ三十分、途中なにやら工事をしている。工事現場の人が渓を背負って歩いている僕を不思議そうに見ていた。林道の両側は新緑がみずみずしい気分のよい広葉樹林だ。以前下りに歩いた道だとにいうのに、ほとんど記憶がない。

この日は行く先が未定とて、いつも携えている二万五千分の一地図を持ってきていなかった。で、帰りにはこの林道を短絡しようと、屈曲の具合を見ながら登る。林道終点からもなお車が通れそうな道がしばらく続く。それもいつしか人の径となって、大きな垂直の岩壁を回り込む。

見上げるとボルトが点々と打ち込まれている。不動滝に至る目ぼしい岩壁はどこもそんな状態だった。なるほどこのあたりまでなら、車で乗り入れれば、ほとんど歩かずに岩に取りつけるわけだ。

棧道が次々に現れて、腐りかけた場所にはまだ新しい修復の跡があるが、全体に以前よりも径は随分荒れているようだ。左下、随分深いところに沢音が聞こえる。右岸に渡ってしばらく歩くと不動滝に着く。一服とし、渓におやつを与える。

霧が濃くなり、不動滝の落ち口まで隠れてしまう。さながら南画のようだ。

同じ山でも南面と北面では随分雰囲気が違う。富士見平からは、針葉樹の中を登るにしては明るい乾いた径だが、こちら側は岩も地面も苔蒸してしっとりと濡れている。ひと気のなさも格別で、不動滝から上はさらにその感じが強まる。

初めて瑞牆山に登った時は南面の富士見平からだった。その登山道には、ほとんど十メートルおきにといってもいいほど、地元の学校が集団登山の際に付けたのだろう「自然は僕たちの宝」だの「この美しいみずがき山を守りましょう」といった陳腐な標語の書かれた札が枝にぶらさがっていて閉口したものだった。幸い、北面登山道にはそんなものはひとつもない。

「ここに標語を掲げるのはやめよう」と看板を出したいくらいだったが、いつしか激減した。奇特な人が谷底にでも叩き落としたのかと思っていたのだが、それが本多勝一さんの『山登りは道草くいながら』(実業之日本社)の中にある一文の影響で回収されたということを、須玉町在住の小学校教師矢崎茂男さんの『奥秩父西端・わが町の山々』(近代文芸社)で知った。

影響力のある本多さんのような人には、無意味な集団登山や、旧跡や古都の神社仏閣を黒づくめに埋めて、こころある見学者の迷惑にしかならない修学旅行を批判してもらって、我が国から廃絶させてもらいたいと思う。

子供が勝手に自然保護を言い出すことなどなく、これは大人の口真似に過ぎない。元来子供は虫を追い、花を踏みしだき、カエルを石で潰してそれをえさにしてザリガニを釣り、木刀を振り回して木の枝を叩き折るものなのだ。

大人も子供の成れの果てで、大した事を言っているわけではない。だいたい自然保護とはなんとも錯覚を与える表現で、これは人間が生き延びる為に自然に施す処理とでも注釈を付け加えなければならない。でもそれは延命措置にすぎない。確実に終わりはやって来る。

文明の発達と自然回帰の欲望は常に表裏一体だ。文明と近代登山も密接に係わっている。僕たちは文明の生み出した色々な便利な道具の助けを借りなくては山に登ることはできないし、登ろうという気さえ起きなかったかもしれない。

僕たちは山や自然の写真を撮るときファインダーの中に人工物があることを嫌う。でもこれは何という矛盾だろう。美しいと思う手つかずの自然を見ている自分を見るがいい。服も靴も時計も眼鏡もその美しいと思っている自然を写し撮ろうとしているカメラもなにもかも人工じゃないか。そして自分自身が人間そのものではないか。草も花も木も人が美しいと思わなければ美しくはない。山や海だって人が想いを託さなければ地球上の皺やあばたや水たまりに過ぎない。それなのに他の人間がうとましい時がある。ひと気の多い山には行きたくない。他人が誰ひとりいない山頂がいいに決まっている。そんな自分はいったい何だろう。考え始めるときりもない。

取り乱してしまった。

不動滝からしばらくでまた左岸に移る。山深い雰囲気にうっとりしながら登るうちに、なおも沢沿いに続く今や廃道となっているらしい小川山への登路を分け、南へひたすらの登りとなる。以前の地図では登山道の破線がどうにもおかしかったが、平成九年版では修正されている。

霧の中を時たまぼおっと姿を現す岩峰を見上げながら登っていくと、ティッシュペーパーの花が咲きはじめて、富士見平の径と合する。人のあまり入らないこちら側は格好の用足し場となっているらしい。

ひと登りで頂上の岩の上に飛び出す。ここはまさしく飛び出すといった表現がぴったりする。

北から登るほうがその感が強いが、南から登るにしろ、ここに達して初めて大観を手に入れるという点で、この山は傑出している。展望のいい山はいくらでもあるが、その頂点のみが最高の眺望を与えてくれる山はそうはない。森林限界を越えた山が展望が良いのはあたりまえだが、すでに頂上以前に眺望がほぼ呈示されてしまっている。

しかし、今日は霧の中。誰もいないし、ほとんど何も見えない。西の弘法岩の上に連なる八ヶ岳を、南に聳え立つ甲斐駒、白峰を、北の膨大な小川山の森を、そして東に伸び上がる金峰山を想像する。

色々な季節、もう片手では数えられない回数この頂上で眺望をほしいままにしたのだ。ここにまた来れただけで嬉しい。娘を世話になった恩人に紹介しに来た気分だ。

霧が流れて大ヤスリ岩が姿を現したり、小川山に続く岩峰が浮かび上がったりする。

誰もいない頂上をウロウロ歩き回っているうちに、中年の夫婦が登って来た。渓を発見して大騒ぎとなる。渓と一緒に記念写真を撮ったり、渓の写真を何枚も撮ったりと、まるでタレントのようだ。渓は僕の背中でぐっすり寝て、頂上で食事を済ませていたので愛想 たっぷり、これもタレント並みだ。

聞けば新潟から夫婦で深田百名山を目指してやって来たらしい。翌日は鳳凰山に向かうという話だった。もうわずかで完登らしい。

何にせよ目標がある事は良い事だ。僕たちの山登りには、日本全国や世界を股にかけた壮大な目標はない。いつも行き当りばったりだ。塵を積もらせて山とするほかない。

やがて夫婦が去り、僕たちも下ることにする。入れ違いに四五人が登って来た。

往路を順調に下って、登る時に最初に現れたボルトの埋め込まれた岩壁から、朝方確認しておいた踏み跡を辿った。岩登りの連中がつけた径だろう。最短の距離で林道に出た。

林道をしばらく歩いて、短絡すべく目星をつけておいた林の中に踏み込む。この林の中の下りが白眉だった。

これも昔からの林ではないのだろうが、膝には達しない位の高さのミヤコザサで敷き詰められた白樺の混ざった新緑の広葉樹の林の中は、曇天とて木漏れ日こそ射さないが、しっとりした緑が匂い立つようだ。踏み跡もないが、藪もなく傾斜もゆるやかで、昔読んだ西欧の童話に出てくるような小屋がどこかに建っていて、そこにその主人公が住んでいそうな気配だ。

うっとりと木々を縫って足まかせにスキップするように下って行く心地良さ。しかし幸せはいつもはかない。不粋な林道に飛び出てしまった。カーブひとつ曲がったら、僕たちの車が待っていた。

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