鞍掛山
夏は高い山に限る。たとえば本州中部なら日本アルプスのような。 凛とした朝の冷気、痛いほどの陽射し、むせるような這松の匂い、湧く入道雲、雷雨の去った静かな夕暮れ、夏の大三角を横切る天の川。健康な、めりはりのある起承転結。 夏の高山にこそ、私が山に抱くさわやかですこやかなイメージのすべてがあるようだ。しかし、それを実際に経験したのは、学生時代に登った北海道の夏山でのわずかな日々のみ。夏に休めない仕事に就いてしまったのが運の尽き、今に至るも夏の日本アルプスを知らぬままである。 日帰りで夏山気分を味わわせてくれる山はないだろうか。高さはなくとも、いかにも夏の似合う、それでいて、ひとけのない山。 白州町は日向山の奥、鞍掛山。 仕事の忙しい夏のさなかに山登りに使える時間はあまりない。だから、この山に登ったのも近所ゆえの出かけやすさのせいだった。だが実際に登って、夏こそ似合う山だなあと思った。 甲斐駒ヶ岳をはじめとする、このあたり一帯の山々を造る花崗岩の風化した白ザレが濃い緑を裂いて、いたるところに顔を出すさま。それに漉された清冽な水がこれも白い沢に白い飛沫を散らせるさま。古来斧鉞の入ったことのないような黒木の森。その中を歩く涼。明と暗の鮮やかな対比。 甲州街道が駒ヶ岳神社参道の入口、白須へ近づくころ、甲斐駒ヶ岳から連なる乱杭歯の中に端正でするどい台形を見いだす。鞍掛山とは言い得て妙である。 日向山の登山口でもある矢立石までは車が入る。この山の頂上一帯の雁磧(がんがわら)はまるで山中の砂浜のよう。だからここも夏が似合うのに、春秋に較べると真夏の登山者はずっと少ないようだ。 車止めのゲートから錦滝までは、花崗岩の細かい砂に足跡を残して林道を歩く。深い緑に覆われた尾白川渓谷の沢音を左下に遠く聞く。緑地に不規則な白いストライプの入った夏服姿の甲斐駒がときおり樹林の途切れから現れる。雲ひとつない快晴に明けた朝だったが、早くも夏雲が空に湧きはじめている。 前方から水音が聞こえ、錦滝に着く。うまい水場があり、東屋もある。ここで林道とわかれ、滝の横から山径に入る。 日向山の行き帰りに何度も登ったり下ったりしたこの径の急なことといったらない。木の根をつかむ登りとはこのことだ。真夏のこととて、人一倍汗かきの私のタオルは、やっと尾根の傾斜がゆるみ、日向山の白い砂浜が行く手に見えるころにはすでにぐっしょりと重たくなっていた。 たどってきた尾根から下り気味にそれていく日向山への径とわかれ、かぼそい踏跡を追うと、小突起を南から巻いて主尾根に出る。谷を隔てて雨乞岳の大きな図体が現れる。 登るにつれ森はいよいよ黒くなり、深山の気も濃くなる。登ってきた尾根から左に、苔むした大岩からなる浅い沢に下り、南の小尾根に取りつく。その急な登りが終わり、左手から広い尾根が合流すると、富士や鳳凰三山が視界に入ってくる。陽射しがさえぎられる黒木の森こそ夏の盛りにはありがたい。快調にゆるく登って行くと、広くなった尾根は南北に平行する二重山稜のようになり、その北側をたどっていたのがいつしか南側の尾根を歩いている。 やがて行く手に白い岩が見え始め、大輪の石楠花を分けるようになる。これが駒岩というのか、南側に落ち込んだ花崗岩の白い岩頭を何度か渡る。 振り返ると八ヶ岳の裾野が広い。目指す鞍掛山と甲斐駒が重なって見える。 たどりついた駒岩の頭は、名前にそぐわぬ平坦で小広い場所である。さらに西へと続く大岩山への主尾根と別れ、南に鞍掛山との鞍部へと急降下する。途中、明治年間の石碑が岩陰にある。これも、鞍掛山の南端にあるあの遥拝所と関係があるのだろうか。 鞍部からは右にからんで、麓から見た台形の急な斜面の登りとなる。人だか鹿だかわからない踏跡が錯綜する。しかし、もう高いところへ登っていくのみ。傾斜がゆるむと一投足で小さな山名標のある頂上だった。三角点もなければ眺めもない静かな頂上で、それはそれで味わいがあるが、この山の真価は頂上からさらに続く淡い踏跡をたどった甲斐駒遥拝所にこそある。 黒木の森から真っ白いザレ場の頭に突然飛び出す。まぶしさに眩んだ目に無理やり飛び込んでくる甲斐駒の大観。呆然としてそれを眺める。我に返ると周りの石造物が目に入る。巧まずして清新な白砂の上の石仏、石柱、石祠。よくもここまで運び上げたものだ。台座に彫られたおびただしい名前のひとりとしてこの世にいるものはないだろう。ここで甲斐駒を見上げて一心に祈ったこれらの人々を想う。かつて彼らが見たのと変わらぬ姿の甲斐駒を今ひとり眺める私。去りがたい夏の鞍掛山。(2003年7月末) 高さ 2037m 県 山梨県 歩行 6時間50分 静山度 ☆☆ 推奨度 ★★★ 難易度 3 二万五千図 長坂上条 参考タイム 矢立石(40分)錦滝(1時間)主尾根(1時間30分)駒岩の頭(40分)鞍掛山甲斐駒遥拝所(日向山経由で3時間)矢立石 アドバイス ヤマケイのガイドブックに紹介されたこともあって、踏跡は以前より濃くなっているが、それでも日向山から先には道標の類はまったくない。よって、それをあてにしないか、ないのを好む人向き。 立ち寄り湯 むかわの湯(0551-20-3113) |