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 『昆虫にとってコンビニとは何か』
         
    高橋敬一著

私は新聞を読まないから新刊書の情報には疎い。どうせ買うなら古書に限ると思っているので、べつに困りはしなかったのだが、それを少々反省させられることになった。というのも、島本達夫さんが表題の本を本誌59号の巻頭で紹介されたのに「おっ、これは」とピンときて、後日手に入れて読んだところ、狙いは違わず久々に新刊で溜飲が下がる思いをしたからだった。

そこで、いずれこの連載でも取り上げようと思っていた矢先、著者の高橋氏が前号の読者欄で私の連載に触れてくださったのを読み、へえ、偶然だなあと思った。そればかりでなく、前号に私が書いた「登山家の自家撞着」という文章は『昆虫にとって・・』にかなり刺激を受けて書いたものだったからである。漠然と思ってはいても、今ひとつ自分の中で整理がつかないでいたことを高橋氏が論理的にずばりと説明してくれたことが、かねて登山家の自然観に疑問を持っていた私にその文章を書かせたのだった。

私は以前から自然保護という言葉に違和感があって、(人間のための)と但し書きをつけずして何の自然保護だろうと思っていた。自分が生きていくために、増え続ける人口を生かすために、また、贅沢をするために人間がする営みが、文字どおりの自然保護とどれだけ相反するものか、少々想像力を働かせればわかることである。一方に、原生の自然は神聖で侵すべからざるものだから人間が手を出してはならないという自然保護があったとしても、いみじくもその理由により私にはそれが宗教の一種としか思えない。

より明るく、より速く、より美味しく、より快適に文明生活を続けたい。それを危うくする環境破壊なら何とか食い止めなければならない。つまり自然保護は私利私欲である。それはそれで結構だ。けれども、そんな自然保護が清廉潔白な正義面をしているのを私は好まない。

だが不快ではあってもこちらはまだ理解できる。不審なのは、自然保護運動がしばしば無邪気すぎるところだった。

高橋氏は、「人類存続の危機感からの自然保護」と「ノスタルジックな感情からの自然保護」の、ふたつの例を挙げる。

前者は私の思う自然保護に近いが、目を開かれたのは後者だった。高橋氏はそれについて、人間の本能に自分が生き残ってきた環境については現状維持が好ましいという指令が含まれているから、失われていくものを愛惜し保護しようとする、いってみれば趣味の世界だと書く。私は、なるほど本能や趣味なら無邪気なのも無理はないと膝を打ったのであった。

本能のみで行動する昆虫を研究している高橋氏だけあって、人間の本能についても本のいたるところで言及する。

《私たちはいったいどうしたらいいのだろう?。/その答えを本能に尋ねることはできない。本能はかならずや現代の危機的状況など無視しようとするからだ》

《人間の本能は、人間にとって大きな重荷となりつつある。とてつもなく大きな重荷だ。それは人間以外の、昆虫を含めたすべての生物種にとっても同じことだろう。時間の経過のなかで環境は徐々に、あるいは急速に変わっていき、それにつれて彼らが持つ本能も、彼ら自身にとっては重荷以外の何ものでもなくなっていく。そうしてやがて本能と現実との乖離があまりにも大きくなると、その種が滅び、別の種が繁栄したり、新しい種が誕生したりしてくる》

《人間は他人(他種)のことは見当がつくけれども、自分自身のことは本能(欲望)のフィルターが邪魔をしていて、見当がつかない》


生まれつき科学音痴な私はその方面に関心が薄いから、本に散りばめられた、著者の該博な知識が頭を素通りしていくのを情けなく思ったが、それでもなお、私のような門外漢に最後まで読ませ切るのは、高橋氏は昆虫のことを書きながら、その実、人間を描こうとしているからに他ならなかった。いかなる分野の学問や研究も、それが人によるものであればついには人に帰結するのは何も自然保護だけではない。
 
人間を本能で行動する生物種のひとつと考えるところから、高橋氏の客観的で乾いた人間観察が生まれた。たしかに私たちは人間が理性で自らを律することができると考えがちだが、それ以前に、まず生存ありきという本能がすべての大前提であることをふだん忘れている。この世は結局あらゆる生物の生存競争の場ではないか。そう考えれば人間同士の絶えざる紛争の原因もごく単純に思える。

そして、特筆すべきは卓越した文章力であった。先の引用でも充分感じられると思うが、文章の流れに間然するところがなく、しかもひとつひとつの歯切れがじつに小気味いい。こういう胸のすくような文章は久しぶりに読んだ。語るに足る内容があって名文ができるわけではなく、文章の才や技術があってはじめて内容が輝くのだというあたりまえの事実がここにある。

読書には自分と似たような志向の人間がこの世にいることを確認する意味があると、たしか吉行淳之介が書いていた。私が高橋氏の本でそんな思いをしたといえばいささか不遜が過ぎるかもしれないが、本を読んで快哉を叫ぶとはそういうことである。

私と同様、「地球にやさしい」「自然とのふれあい」「かけがえのない命」といった類の言葉に首筋がむずかゆくなるような人は、読めば必ずや溜飲を下げることになるだろう。ただし、下がった溜飲が苦くて胃に重たいのは覚悟してもらわねばなるまい。

最後に、高橋氏の連載が『岳人』誌の新年号から始まっていることを報告しておこう。その名も「カメムシの目で人間を見る」。どこからともなく部屋に侵入してくるカメムシを片っ端からガムテープで退治している私だが、これからはしげしげとその姿を眺めることになるかもしれない。

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