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            霧ヶ峰(5月25日)

赤岳に登ろうと企て、美濃戸まで行ったが、富士見高原を通過する頃にはもう車の窓にポツンポツンと雨滴があたり始めるという天気予報どうりの空模様で、もしやの期待は見事に裏切られた。

どこかに晴れ間のある所はないかと茅野から霧ヶ峰へ向かったが、ビーナスラインの料金所あたりから、ますます名前通りの霧ヶ峰となってしまった。

車山の肩で駐車場に車を置いて、コロボックルヒュッテの玄関まで行ってみた。


古書で求めた東京創元新社出版の『現代登山全集6・八ガ岳』の中にあった文章に感銘を受け、僕はコロボックルヒュッテの御主人である手塚宗求さんの読者となった。

それ以前から山関係の本はよく読んでいたので、霧ヶ峰のコロボックルヒュッテという山小屋の名前も、それが手塚宗求という人の経営で、その人は本も書かれているということも知っていたのだが、その文章に触れたのはそれが初めてだった。

山の本は古書で求めるに限ると思っている僕は、それから古書店で手塚さんの本を捜した。松本が手塚さんの出身地のせいだろうか、松本に立ち寄った時に見つけて求めた本が多い。

霧ヶ峰の歴史、コロボックルヒュッテの成り立ち、そのまわりの防風壁や防風林のことなど、そのひとつひとつにこもる手塚さんの苦労を本を読んで知っている僕は、人の苦労をまるで自分のことのように思って感動するのは、ただの甘い感傷に過ぎないのかも知れないと自分を戒めながらも(もちろん手塚さんが苦労を苦労として語るような浅薄な文章を書かれているわけではない。たいていの浅薄なそれは自慢話に過ぎない)実際に霧の中にたたずむそれらを目の前にすると、つい感懐にふけってしまったものだ。

これが天気の良い、人の満ちあふれた真夏の一日でもあったなら、また違った印象を持ったかもしれない。あらゆる印象は天候に影響されることがほとんどだから。

わざわざヒュッテまで行ってみたりしたのは、読者であることもさることながら、彼我の差は較べるのも恥ずかしいが、僕も同じ人里離れた山暮らしということで親しみを感じていたのと、この前年に手塚さんに関係のあるふたりの人に出会う偶然があったからで、多少なりとも縁があるのかなと勝手に思い込んだからである。

人は自分に都合の良い方に物事を考えがちであるが、僕にはその傾向が強いらしい。楽天家と言えば聞こえはいいが、要するに大阪で言うところの阿呆である。


そのひとつは、正月八日のことだった。朝から霧の濃い日で、その前に降った雪がまだ道路に残っており、とても客が来そうな日和ではなかったが、一応開店してひとり店番をしていた。

一台の車が止まって、登山服姿の男女が降りて来て店に入り、甘酒を注文した。その小柄な男性を、随分物腰の柔らかい人だなあと思いながら給仕したものだ。そのうち僕は「あれ、この人はひょっとして山岳写真家の三宅修さんでは」と考え始めた。雑誌などで顔写真を見たことしかなかったのだが、僕にはそういう勘が鋭いところがある。

コロボックルヒュッテの草創期や、そこで働く手塚さんの姿や、昔の霧ヶ峰の風光を僕は三宅さんの写真で知った。これは三宅さんが『アルプ』の編集をされていたことや、手塚さんに同誌への寄稿が多いことと関係があるのだろう。僕は『アルプ』の同時代の読者ではなかったが、その前の年に熊本の古書店で偶然、創刊号からの二十冊を手に入れたばかりだったのも奇遇な気がした。

高校一年の時、しばらく病床にあった僕は、外の世界、わけても山に憧れ、三宅さんの書かれた山と溪谷社の『アルパインガイド』をむさぼるように読んで、上高地やそれを巡る山々に思いを馳せたものだった。

高校の図書館に揃っていた、同じく山と溪谷社から出されていた『山溪カラーガイド』の愛読者だった僕は、その中でも『穂高岳・槍ガ岳』は自分でも買い求めて折りにふれて眺め、読み返した本の一冊だった。

その本も、共著ではあったが三宅さんの著書だった。今僕が持っているのは、大学時代に人に貸してそのまま行方がわからなくなってしまって惜しく思っていたのを、古書店で見つけ再び手に入れた本である。

僕の愛読する、尾崎喜八、串田孫一、河田 さんたちの風貌も、三宅さんの陰影に満ちた白黒写真によって更に印象深いものとなった。これもまた『アルプ』に発する縁だろう。

二人は車を置いて山に登っていった。僕は車の保管場所標章を見に行って、やはり間違いないと思った。僕はその著作から三宅さんが神奈川県の津久井町に在住だと知っていたからだ。

署名を戴こうと書棚から何冊かを引っ張り出してきて、山から帰るのをもどかしく待った。

午後になって二人が戻ってきたのを見て、僕は思い切って車の所へ行き、尋ねた。「三宅修さんでははありませんか」

「はい、三宅です。どこかでお目にかかりましたか」その声を忘れない。

やはりそうだった。僕は読者であることを告げ、本に署名を請うて、他の客がいないのを幸いに店に招き入れた。連れの女性は写真教室の教え子であったわけだ。

「こんなに買ってくださって、ありがとうございます」などとかえってこちらが恐縮するようなことをおっしゃる。

「私の署名など大したものでははありませんが、この印は串田孫一先生が作って下さったものでなかなかいいものです」とあくまで謙虚に語りながら落款してくださった。高校の図書館には串田孫一さんの山の本が何冊もあった。自然と哲学に興味のあった僕が、山での思索の文章の多い串田さんの本を見逃すはずはない。それらをうっとり読み耽ったことを思い出す。僕と会う以前は山などに興味がなかった妻の本棚にも、串田さんの『山のパンセ』は高校時代にすでにあったという。

その後、妻を含めた三人で記念写真を撮ってもらった。

その日の客は、結局三宅さんたちだけだった。一台の車も通らなかった。夜には、一杯やりながら、署名をしてもらった本を久しぶりにためつすがめつしたのは言うまでもない。


これが、手塚さんに関わりのある人に会ったまずひとつ。もうひとつは、同じ年の九月に入ったばかりの日、これも奇しくも赤岳に登った時の出来事だった。

春先の升形山などに一緒に登ったA君とY嬢は、いつも二人で山に登っているのだが、妻が妊娠末期とてパートナーのいなかった僕は、たまには変則の組み合わせで山に登ってみようじゃないかと、A君とY嬢ひとりひとりとパーティーを組むことにした。三人で行ければいいのだが、店の仕事のローテーションの関係でそうもいかない。

富士山以外の高山に登っていない二人だったから、この機会に経験を積ませようと、A君とは赤岳に登ることにした。Y嬢とはその翌々週、阿弥陀岳南稜を登った。

さて、その赤岳での出来事だ。美濃戸口から歩き始めた僕たちは、順調に美濃戸を通過、柳川南沢に沿って高度を上げた。途中で単独行の青年を追い抜いたのだが、その後僕たちにちょっとしたアクシデントがあって、またその青年が先行した。行者小屋から阿弥陀岳と中岳を経て赤岳に登ってきた彼と、文三郎道を登った僕たちがその合流点で会うことになったのだから、僕たちは随分時間を食ったことになる。

そこからは三人隊列を組んで頂上まで歩いた。その道すがらの話、彼は学生で、昨日まで霧ヶ峰で夏のアルバイトをしていたと言う。興味をそそられ詳しく聞くと、そのアルバイト先がコロボックルヒュッテだったのである。嬉しくなって、僕はそのS君という青年に根堀り葉掘り話を聞いたものだった。赤岳頂上小屋に泊まって翌日夏沢峠まで縦走するという彼と頂上で別れ、僕たちは地蔵尾根を駆け下った。

これが手塚さんに縁のある人に会った二つ目の偶然だった。


家の中から声がし、誰かがヒュッテの裏から出てきて、車に乗り込む音がした。手塚さんじゃないかと思った。はっきりと見たわけでもないのに、水のタンクを荷台に積んだトラックに乗って出かけるのを見て、それだけで間違いないと思い込んだ。僕は慌てて妻と渓の待っている車に戻ってトラックの後を追った。

しばらく走って、トラックに追い付くことができた。料金所を出るとトラックは和田峠へ行く道と別れて諏訪へと向った。僕はしばらくその後を追った後、車を止めた。

その時、手塚さんの著作を一冊でも携えていたなら、トラックが行く所まで追いかけて署名を請うたかもしれない。が、その予定のなかった僕には一冊の本の持ち合わせもあるはずがなかった。でも、それは本当に手塚さんだったのだろうか。何ともミーハーな行動ではある。それに、読者が愛読する本の著者に逢うのはそう気軽なものではないし、そうとう面映いことではある。

霧のビーナスラインを扉峠へ向かい、松本におりた。皮肉なことに町中に出たころには陽が射しはじめていた。馴染みの古本屋に偶然あった、かねてから捜していた手塚さんの本を記念に買った。

『新編 邂逅の山』(恒文社)である。

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