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            金峰山(5月20日)

ゴールデンウィークでしばらく休みが取れなくなるので、その前の週には是非ともどこかへ登りたかったのだが、珍しく妻も渓も風邪気味で、仕方なく僕はクリオを連れて、ひとりで十谷林道から源氏山に登った。この山は以前丸山林道から往復したことはあったが、小島烏水や田部重治が白峰入りに辿った湯島道を僕も辿ってみたかったというわけだ。

昔は自然林だったのだろうが、今は一面落葉松の植林地で、そこが風情を欠く。しかし山の奥深い雰囲気が良かった。もっとも田部さんの本では針葉樹の森で涼しかったとあるから、昔は樅や栂の林だったのだろう。明るさだけは今のほうが勝るのかもしれない。この冬の豪雪のせいか、ところどころ山抜けがおこっていて危うい場所もあったが、古の径を堪能した。誰ひとり行きあう人もいなかった。

国民的狂騒週間も終わってやっととれた次の休日、久しぶりに瑞牆山にでも登ろうかと渓を担いで瑞牆山荘から歩きだしたのだが、富士見平まで来ると濃かった霧に雨も混じり始めて、そこで終わりにしてしまった。日帰り登山家に雨は似合わない。

そして久しぶりの好天の約束された休日。途中でやめた瑞牆山にもう一度トライしようかとも考えたが、毎年のように登っていた金峰山にしばらく御無沙汰だったので、そちらに久濶を叙することにした。金峰山に瑞牆山荘から登るのは、登山を再開した頃に二度登って以来だから、もう十年近くもあの砂払いの頭から五丈石に向かう豪快きわまりない登りを味わっていないことになる。

もっとも数年前、同じく金峰山を目指して大日小屋まで登ったことがあったが、そこから上に雲が重く垂れ込めているのを見たら、体調がいまひとつだったことあり、登高意欲が失せて中止してしまった。それではあんまりなので鷹見岩に登ってお茶を濁した。そこで初めてイワインチンを見た事が印象に残っている。


数年前まで森林書房から、季刊で『遊歩百山』という本が出版されていた。山好きの人達が自分の歩いた山の案内を紀行文風に紹介する本で、僕も縁あって何回か書かせてもらった。原稿料をもらえるわけではないが、自分の書いた文章が商業誌に載る事がなによりの報酬で、自分の山歩きを文章にすることなどなかった僕も随分楽しく書かせてもらったものだし、山行の励みにもなった。その本で知って登った山も多い。

山村正光さんの登山教室の小笠原かず子さんがたまたまそれを読み、僕の名前を覚えていてくれて初対面の時お互いに驚き喜んだことはすでに『淵ヶ沢山』の項に書いた。僕の拙い文章でも覚えていて共鳴してくれた人がいて、書いてよかったと思ったし、山とはいいものだと思った。大げさでなくこんな出来事が生きる喜びとなる。

編集をされていた渡辺志郎さんが身体をこわされて、残念ながら十二号で休刊となってしまったが、実は十三号の原稿はもう頼まれていて、僕の担当がその前年に黒平から登った時の金峰山の紀行だった。書いて発送もしてから休刊となったので日の目を見ることなく返ってきてしまった。他ならぬ金峰山の記事なのでここで紹介しておきたい。



山の都はと問われた時、真っ先に返ってくる答えが松本だろうが、こと山岳景観にかけては、松本は甲府のそれに及ばないと思うのは、山梨県民である僕の身びいきだろうか。

何となく松本のほうが山に近いように感じるが、実際には松本駅から常念岳の距離は甲府駅から鳳凰山や金峰山の距離に等しいし、同じく槍穂連峰(もっとも松本市街からはまず見えない)の距離にはどんと白峰三山がある(もっともこれも甲府市中心部からは北岳が見えなかったりする)。その他、八ヶ岳、大菩薩連嶺、甲斐駒ヶ岳、そして富士山。我々山岳巡礼の徒垂涎の山々にずらりと取り囲まれている甲府の山岳景観部門の勝利は堅い。

しかし、しかしである。街の中に山の雰囲気が漂っている点では悔しいことに松本の方が上に思える。なぜか甲府の街にはそれが希薄だ。僕の思い込みかもしれないが、こんなにいい山が周りにある事に気付いていない人が多いからではなかろうか。近代登山が北アルプス中心に繰り拡げられ、松本がその玄関口だったことにも原因はあろう。

甲府市内にある全国チェーンの登山用品店の店長が、山国なのに山道具の売れ行きが悪いとこぼしていたと人から聞いた。市民及び県民に、日本に冠たる山々に囲まれていることにもっと誇りを持て、身近の山にもっと登れ、と言いたい。

それはさておき、甲府市はおおざっぱに言うと、笛吹川の支流の荒川の流れに沿って広がる、東西に狭く南北に細長い町である。そして市の北端、すなわち荒川の源流に位置するのが今回登った甲府市内の最高峰、金峰山である。つまり、甲府市民は金峰山の恵みの水で生きているようなものだ。

甲府市最高峰でありながら市内からはよく見えない山だが、少し離れて甲府盆地の南部から望む、五丈石をシンボルとするたおやかな姿はまさしく甲府盆地の北鎮というにふさわしい。特に冬、真っ黒な奥秩父の山脈のなかにあって、わずかに森林限界を抜けた、決して鋭くはないがぐっと力強く盛り上がった白い雪の頂稜は、甲府盆地の北のスカイラインをきりりと引き締めて間然するところがない。また、北巨摩郡からの、冬の早い西日を照り返して鈍く金色に光る五丈石を頂点に戴いた悠揚迫らざる金字塔はまさに絶品である。名前そのものの山姿である。

かつて宗教登山華やかりしころ甲州側九筋あったという登路のうちでも、御岳金桜神社から荒川沿いに遡ってその頂きに達するものは、登山の性格上その第一のものであったろうと思われる。が、時代の流れとともにその座を奪われ、今では最も不人気なコースとなってしまった。

僕は金峰山に増富側から二回、ずるをして大弛峠まで車をいれて二回、計四回登ったが、このコースはやっぱり行程の長さに尻込みしていた。

しかし、それでは大好きな山に申し訳が立たない。とはいえ、金桜神社からの往復では車道歩きが長すぎて日帰りではちとつらい。入れるところまでは車を使わせてもらう。神社の北にある猫坂というのが気になるがまたの機会とする。いざ出発。

上黒平でクリスタルラインの分岐を右に見送ってさらに直進すると、いつしか道は精神川に沿うようになる。左に大きくカーブする所が伝丈橋で、林道が分岐している。すぐそばに大きい空き地があったので車を置く。林道にはゲートがあって一般車は通行止。

林道を入ってすぐの一七○九米峰へ続く破線路を辿るつもりだったが、金峰山入口とペンキで石垣に書かれ、古い木の梯子も立て掛けられているものの、入ってみるととんでもない藪で、突破したいが時間がない。諦めてガイド書通り林道を行くことにする。林道は無駄な迂回が多くて嫌だなあと思いながら歩いていると、金峰山へと書かれた小さな標識が木にぶらさがっていたので従う。

わずかで防火線の切られた尾根に乗った。標高差百メートル以上もある防火線はワラビの畑で、びっくりするほど生えている。 先を急ぐ身だというのに嬉々として採ってしまう。

この登りの途中でガスが濃くなってきた。 防火線が終わった所に収穫をデポ。ここから北へ向かって緩い登りが続く。 径沿いの木にところどころ陶器の碍子が残っているが、電気が通っていたのだろうか。造林記念碑のある林道を横切って落葉松の植林地の中を登る。朝露でズボンがびしょびしょになってしまう。ミコノ沢を渡る頃になると随分山深い感じがする。甲府市の標識がある水晶峠を越えると伏流になっている御室川右岸に出る。岩伝いに河原を北上、右に峰越林道への径を分け、まもなく左岸の樹林帯に入り御室小屋到着。テントが一張り。留守のようだ。小屋は草叢の中の廃屋といった感じだがなんとか泊まれそうだ。甲府市観光課管理と扉に書かれていたが管理というには程遠い。しっかりせんか甲府市。

小屋の裏手から原生林の中の急登が始まる。しゃくなげが心なごませてくれるが、鎖場があったり、危げな梯子があったり、ガレを横切ったりと容赦のない登りが続く。

最近のガイド書では御室小屋の上の鎖のある岩場を片手回しとしているが、原全教『奥秩父研究』や昭和初年の朋文堂のガイドなどでは、ここはトサカで、その上の卵型の大岩が微妙なバランスで立っているのを片手回しと呼んでいる。当然そちらが正しい。

本来なら五丈石を見上げながらの豪快な登りなのだろうが、霧のせいでまるで先が見えない。這松が現れてそろそろ頂上かなとも思うが、五丈石はどこだろうか。とその時、霧の中からそれがぬうっと出現したのにはたまげた。やれやれ、やっと頂上だ。

霧で見えない三角点ピークの方から話声だけがしていたが、それも消え、僕たち夫婦だけの静かな山頂となった。いつも通りの山頂での至福のひとときを過ごすうちに霧も徐々に晴れて、朝日岳位までは見渡せるようになった。

さて、名残は尽きねどいざ下山。往路を戻らねばならない。車利用の登山では、うまく周遊コースを設定できればいいものの、同じ径の往復になる事も多いが、物は考えようだ。登りと降りではまるで景色は変わる。なめるように山径を味わうのもまた楽しい。

右手に八幡尾根の奇岩を見ながら御室小屋まで一気に下る。先ほどのテントの人が帰っていて、水晶峠の南で水晶を採っていたという。捜せば小さいものならまだあるそうだ。例の防火線では卑しくもまたわらびを採ってしまった。

今回は純然たる甲府市内の山旅だった。そして甲府市最高峰、金峰山は、やっぱり「山の中の山」だった。


これは一九九四年六月二十三日の記録である。その後、川端下からも登って、現在ある一般的な登路は全て辿ったことになる。文中にあった登山用品店は、今は撤退して駐車場になってしまった。



瑞牆山荘の前で用意をしていると、あとから着いた車から降りた子供連れの夫婦が僕たちと同じベビーキャリアを持っていた。もう子供は大きくて走り回っているが、全部は歩き通せないので持っているのだろう。

僕が渓を背負って出かけるのを見て、母親が子供に「あなたも以前はああやって行ったのよ」と話しかけていたから、その子も赤ん坊の頃から背負われて無理やり山に連れて行かれたものとみえる。同好の馬鹿か。おっと失礼、馬鹿はこっちだけです。山の中でまた会うかと思ってその場では話しかけもしなかったが結局会わずじまいだった。瑞牆山に登ったのだろう。

クリオも連れていくことにした。犬に関してアルプスのようにかまびすしくなさそうだし、落石を起こして危険な場所もなさそうだ。それでも今や平日の金峰山くらいが犬を連れていける最高峰だろう。

勝手知ったる里宮坂もしばらく来ないうちに木段で整備されている。以前から崩れた木段を避けるように登ったものだ。きっと今度の木段も大勢の登山者や雨でそう長くはもたないだろう。

里宮坂の急坂を登り切った場所は、十年前には植林の落葉松がまだ小さくて瑞牆山の好展望台だった。その当時すでに腐りかけたベンチがあったから、それ以前にはもっとすっきりした場所だったのだろう。

田淵行男氏は『黄色いテント』(実業之日本社)の中で、徳本峠の樹木の繁茂を嘆じて「この峠のように展望を身上とする山中の名所は、それを生かす合法的で積極的な整備管理が出来ないものであろうか」と書いておられる。まったく同感で、瑞牆山の全容が眺められる唯一無比といっても過言ではないこの場所も早急に何とかすべきである。切るといっても自然林ではない、大した価値があるとは思えない植林の落葉松ではないか。こういうのを実のある整備というべきで、富士見平に出現した環境庁と山梨県共犯の馬鹿でかい無用の案内板と比べるのも愚かである。

但し、無用の園地化はすべきではない。ベンチなども不要。ただ山を見せてくれればいいのである。ついでにいえば、夜叉神峠も落葉松が随分白峰三山を隠し始めている。

目障りなその大案内板を横目に富士見平を通過。新しいログハウス風のトイレが出来ていて、早くもハエが占拠し始めている。トイレの問題も我々登山者がもっと真剣に考えなければならないだろう。自然浄化力を越えた入山者がある山域では入山料をとってその管理にあたる以外に方法はないようにも思われるが、登山者なら誰もが気付いている、無用と思われる堰堤をはじめとする土木工事の予算をまわすだけで解決するという話を聞いたこともある。要は税金の使い方である。もっとも、かの案内板や悪評高い甲武信ヶ岳の巨大な山名標示などを嬉々として立てている環境庁では先行き暗いと言わねばならない。

飯森山の尾根を左に見送り、その山腹を巻いていく。この山のてっぺんにも立ってみたいものだ。ここはいかにも黒木に覆われた展望のない山頂のようだが、縦走路が巻いてしまう山でも鳳凰山脈の辻山のような大展望の山もある。

大日小屋の前で一服する。ダケカンバの新緑が美しい。どこからともなくクリオがやって来る。見上げれば大日岩がどっしりとわだかまっている。ここで初めて他の登山者二人に会った。富士見平に下っていったので、きのう金峰山小屋にでも泊まっていたのだろう。

大日岩の基部まで急登をこなすと、飯森山の上に八ヶ岳が姿を現す。もうほとんど雪は見られない。雪の多い冬だったが気温が高かったので融けるのも早かったのだろう。ここで妻に渓を背負ってもらう。僕が写真係なのに渓を背負っているかぎり渓の写真は撮れないというわけだ。それでもすぐに暗い樹林帯に入ってしまったので、しばらくはシャッターチャンスはなかった。

こんなに長い登りだったかなと思う頃、ようやく砂払いの頭へ飛び出す。すでに瑞牆山は遥か眼下の岩の集合体にすぎない。膨大な小川山を天守として瑞牆山と屋根岩が左右対称の岩の要害に見えるのもおもしろい。

行く手を見れば千代の吹き上げから五丈石まで這い松の海の中に延びる豪快な岩稜だ。一服した後、再び僕が渓を背負って天辺を目指す。

途中初老の婦人グループとすれちがうが、ほとんどの人が僕が赤ん坊を背負っているのに気付かない。最後の人が気付いて「あら、まあ」と目を丸くしている。思えば渓を山に連れ出して、初めてこの山で他の登山者に出会ったのだ。

頂上には中年の夫婦が一組だけだった。今や大弛峠が金峰山のメイン登山口だから、六月に峰越林道が開通するまではいたって閑散としているというわけだろう。その点で五月は静かな金峰山を味わう好機といえる。

方位盤と山梨百名山の木柱が目新しい。この木柱も目障りだが、この上にカメラを置いて写真を撮るとなかなか具合がいい。これの立っている山に登る際は、少なくとも頂上での記念写真に三脚は不要だというメリットがある。実際僕はいくつもの山でこの上にカメラを置いてセルフポートレートを撮ったものだ。今日も朝日岳から国師ヶ岳をバックに親子三人で記念写真を撮ることができた。カメラが固定できるネジがついていればもっとよかったのに。

八回目の頂上ともなればもう三角点を見に行くこともしない。五丈石の上にも二回攀じ登ったが、少々恐いのでそれもしない。登頂の感激が回を追う毎に段々薄れていくのが少し寂しい気もする。

それでも今回は娘と一緒だ。五丈石に、この娘が父親と違って人に優しい素直な女性に育つように祈る。

それはともかく、五丈石に落書きされた永遠の馬鹿者の名前も以前に比べて薄くなってきているようで幸いだ。恥知らずにも学校の名前まで書いてある。地元の学校である。地元の山だからといって詰まらぬ集団登山などしなさんな。すでに天罰は下っているだろうが、念のためもう一度呪いをかけなおしておく。

夫婦連れが下って、広い頂上に誰もいなくなってしまった。クリオを呼んで頂上を辞す。森林限界上で二三人とすれちがっただけで、砂払いからは瑞牆山荘までひとりの人にも会わなかった。

久しぶりの里宮坂からの金峰山を終えて、ああ、この充実感をどのようにもっと実もあるものにしようかと(どこで温泉に浸って、どこで一杯やろうかということ)思いを巡らせながら下る僕の背中で、渓はひたすらに眠り続けているのだった。

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