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きのこには限らないが、食毒の有無はすべて経験則である。つまり、ある食物が有毒だとわかるまでには死屍累々ということになる。人間以外の動物はそれを本能で知っている。でなければとっくに種は途絶えている。ひとり人間だけが知識としてしか学べないのは、いかに人間が動物の中でも劣った存在かを証明するようなものだと私には思える。ついに人間とは経験が身体に残らない種なのだと知るのである。だからいつまでも愚行を繰り返すのだなと気づくのである。

きのこに中毒した経験をどこかに書き残しておきたいと思いながら、ずいぶん日がたってしまった。直後ならもう少し書きようがあったと思うがもう遅い。それでも『山の本』に場所を与えてもらったのは幸運だった。柴田尚氏には、本に写真を使わせてもらうことを快諾していただいた。御礼申し上げる。

きのこ中毒
私はかつて甲州御坂山中の、とある峠の茶店で働いていた。はるかに見下ろす河口湖の水面からすっくと立ちあがる富士山。太宰治が『富嶽百景』で書いた、いかにもおあつらえ向きの富士を望む峠である。

およそ落葉松の植林が多い山地だが、茶店の前を通過する旧国道沿いにはふしぎに広葉樹の雑木がはばをきかせていて、きのこの種類も豊富だった。そのため例年富士が初冠雪するころになると、きのこ好きが山をウロウロしだすのが常だった。

そんな場所に職を得た私だったが、当初はきのこの知識も興味もなかった。

観光客が、見つけたきのこを食べられるかどうか鑑定してもらいに店に持ち込んだのを、場所がら備えてあるきのこ図鑑で調べたり、きのこ狩りに来た人の収穫を見せてもらったりして、いくつもの秋を過ごすうちには、それでも数種類のきのこは確実にわかるようになったし、山歩きのとき、きのこの姿に足を止めることも多くなった。

図鑑の中で、致命的な毒きのこの載っているページは赤い縁取りがしてあっていかにも毒々しい。これらをまず覚えた。毒きのこの方が少ないからその方が手っ取り早い。調べてもよくわからないきのこはためしに食べてみた。「疑わしきは食う」というきわめて野蛮な鑑定法である。

ゆでたり炒めたりてんぷらにしたり、一口食べて苦さや辛さに吐き出すきのこも多かった。そのまま食べてしまったこともあったが、中毒したことはなかった。

しかし、ついにこの「疑わしきは食う」鑑定が実に危険な方法であることを身をもって知ることになった。

六年前、紅葉の盛りにはまだ早い初秋のことである。



昼下がり、観光客を降ろしたマイクロバスの運転手が、道ばたに生えていたというきのこを、食べられるだろうかと店に持ってきた。

見たことのないきのこである。しかし少なくとも私の知っている猛毒きのこの範疇にはない。市場に売っているシメジを大ぶりにした感じで、全体に薄い灰色、笠の表面には濃い灰色のささくれがある。一見してなかなかうまそうだ。

知ったかぶりをして、毒きのこではなさそうだけれども、食べてうまいかどうかはわからないと私は言った。

あいまいな返事に、運転手は机の上にそのきのこを置きざりにしていった。

どんなふうに生えているのだろう。バスが去ったあと、きのこがあったという場所を見に行った。茶店の目と鼻の先である。

あるある。車道のすぐ脇、粗い砂利の目立つわりと乾いた地面のくさむらに、いくつも顔を出していた。
   
まだ若そうなのを持ち帰り、包丁で縦に四等分する。小指大になる。締まった白い肉、うまそうだ。
  
よし、すこし食ってみようと、衣をつけて油で揚げた。いっしょに店番していたアルバイトのM君を呼ぶ。

「おい、食ってみるか」
「食いましょう」

揚げたてに醤油を少々たらしておそるおそる口にする。苦味や辛味はない。てんぷらなんてものは、たいがい衣と油の味がまさって、素材の味が淡白ならなおさら、いかにもてんぷらという味しかしない。

「なかなかいけるじゃないですか」
「うん、いけるな」

それでも、正体の知れないきのこである。私はほんのひときれしか口にしなかった。M君はふたきれ食べた。

二時間くらいもたったろうか。

「長沢さん、おかしくないですか」とM君が言う。顔色が青い。

私はそのときには「おかしい」と言われても、それが身体の異常のことだとはまるで考えなかった。

「おかしいって何の事?」
「身体が変じゃないですか?」
「いや、ぜんぜん」

やがてM君はトイレからなかなか出てこなくなった。ひたすら吐いているようだ。

「さっきのきのこのせいじゃないでしょうか?」さらに青い顔になったM君が言う。同じきのこを食べたのになんの異常もない私は「そんな馬鹿な」と一笑にふす。

やがてM君は「やっぱり駄目です、早引きさせてください」と山を下った。幸い、午後からまるでお客の途絶えた日だった。ひとりでもなんとかなる。

いったいどうしたというのだろう。このとき私はまだきのこを疑っていなかった。

それは突然やってきた。

胃の中のものが一気にこみあげてきて、鼻のあたりまでツーンとする。それまでに経験したことのない劇的な吐き気である。

まずい、やっぱりきのこだ。あわてて私はコップに水をなみなみと注いでトイレに駆け込んだ。

とにかく胃を洗わなければならない。水を飲んでは吐き、吐いては飲み、また飲んでは吐く。

吐いても吐いても一向に収まらない吐き気。こんな状態でお客でも来られたら困る。少々早いが店じまいとする。

戸締りをしている間も吐き気がおそう。前触れもなく一気にこみあげる吐き気である。他に誰もいないのを幸いに、外に飛び出し、所かまわずうずくまるが、食道を灼きながら逆流してくる胃液以外に吐くものなどすでにない。

このころから吐き気とともに大量の汗が顔から吹き出るようになった。冷たい汗である。地面にボタボタと流れ落ちる。

はたして自分で運転して帰れるだろうか。河口湖畔の家にいる妻に電話して、どうもきのこにあたったらしい、帰りがあまり遅くなるようなら迎えにくるようにと頼む。

すでに暗くなった峠道には他の車の往来はない。何度も車をとめ、ガードレールによりかかってこみ上げる吐き気を散らす。額の生え際から冷や汗がほとばしる。

それでも、なんとか自力で帰りつくことができた。布団とトイレのひたすらの往復がはじまった。

M君の家に電話すると、お母さんが、M君はトイレで便器をかかえたままだと言う。

「きのこ中毒です。医者に行ったほうがいい」
「そんな大げさな。大丈夫でしょう」

お母さんがのんきに構えているのが食べさせた当人としては助かる。私は苦しくとも医者に行く気はない。発症の早いきのこ中毒は致命的ではないという知識があった。きのこ中毒は保健所に伝わってすぐに新聞ザタになる。峠の茶店の従業員が中毒したのでは人聞きが悪い。

胃が飛び出るのではというような吐き気は夜半ころには収まった。やっと寝られるのかと思ったのも束の間、今度は激しい下痢が始まった。またも布団とトイレの往復が続く。しかし吐き気に較べればまだこちらのほうがましだった。腹痛はないので、ただ便器に座っていればいい。トイレでうたた寝する。

ほとんど寝た気もしないまま朝になった。食欲など皆無。

M君のお母さんから、症状は軽くなったが仕事には行けそうにないので休ませてほしい旨電話がある。私とて果たして仕事になるのかどうかわからないが、休むわけにもいかない。何より、憎いきのこの正体が知りたい。

『山梨のきのこ』(山梨日日新聞社)の著者で山梨県森林総合研究所の柴田尚さんに連絡をとり、採り残したきのこを研究所あて送る。

結局、食事がやっとのどを通ったのはその日の夕方だった。私より多く食べたM君の症状はそれだけ激しかったようだが、医者にかからないまま急速に回復した。実にがまん強い男である。

柴田さんからしばらくして手紙をいただいた。

「私の知る限り、これはまだ日本では発見されていないきのこである。欧米ではつとに毒きのことして有名でTiger Tricholomaと呼ばれている」

これには驚いた。

「だから、あなたがきのこのことをよく知らないから中毒したというわけではない」と奇妙な慰められ方をした。

喉元過ぎればというやつで、私とM君はそれを聞いて、何やら名誉のように思ったのだから困ったものだ。

「日本初の中毒者なら、和名に俺たちの名前が入るかもしれないぞ」と、M君に言う。

「かっこいいですね」

ちっともかっこよくない。下手すりゃ末代までの恥である。
 
翌秋、まったく同じ場所にその毒きのこが発生したので柴田さんに連絡をとった。さっそく駆けつけた柴田さんが標本の採取をし、きのこシーズン幕開けの時期とて、警鐘を鳴らす意味で新聞に発表した。

見出しにいわく『珍種毒きのこ発見』

柴田さんが詳しく調べた結果、過去に新潟で一件だけ中毒例があったらしい。日本初の栄誉?はなくなったわけである。

和名はヒョウモンクロシメジという。我が国二番目の中毒者として書き置く。


ヒョウモンクロシメジ
Tricholoma pardinum Quél.
(キシメジ科 キシメジ属)

 秋にブナ科の広葉樹林に発生する。約10年ほど前から日本での発生が報告されている毒きのこである。ヨーロッパやアメリカでも発生する有名な毒きのこで、Tiger Tricholomaと呼ばれている。日本ではこれまでに新潟県、山梨県などで中毒例が知られている。中毒症状は嘔吐、下痢などで、ごく少量食べただけでも症状がでる。
[特 徴]
 傘は初め半球形で後には開いてまんじゅう形から平らになる。表面の色は灰白色で銀ねずみ色の鱗片におおわれる。ひだは柄に上生からやや湾生し、並び方は密で色は白色。柄は白色で表面には銀ねずみ色のささくれがある。
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