ロゴをクリックでトップページへ戻る


02.10 ロッジ山旅にて

 川崎精雄『山岳文学のひとつの逸話』

『山と溪谷』89年2月号の《山岳文学のひとつの逸話》と題した川崎精雄さんの文章にはいたく感銘を受けた。これまでにいったい何度読み返したことだろう。

これは、大島亮吉が尾崎喜八の詩を、あの有名な《荒船と神津牧場附近》に盗用したことを例証したものだが、文学の研究に関心の薄い私は、その内容というよりは、それを描く川崎さん自身の筆致にすっかり参ってしまったのだった。

とはいえ文章の味わいはこういった小文での簡略な引用で再現できるものではなく、実際に読んでもらう以外にない。ここでは雑誌の中の一文として埋もれるにはあまりに惜しい《山岳文学の〜》を紹介し、私の知り得た「逸話」をそれに加えて、川崎さんの著作へと新たな読者をいざなうことができればと思うのである。

     

昭和11年、川崎さんは、尾崎を中心とした山のグループに加わったことで尾崎と親しい交流を持つようになった。

ある夏、ひとりで尾崎宅を訪ねた川崎さんは、大島の文章に尾崎の詩が使われていることを尾崎自身の口から聞き、帰宅後、実際に詩と文を対照した。尾崎の言うとおり、大正13年発行の尾崎の詩集『高層雲の下』に収められた詩《野の搾乳場》の言葉がことごとく大島の《荒船と〜》に散りばめられていたのである。

この話を川崎さんがはじめて文章にしたのは、それから約40年後、尾崎の没した昭和49年に編まれた『アルプ・尾崎喜八特集号』の《井荻時代の尾崎喜八氏》であった。ただしそこでは、或る人の神津牧場の随筆に、と書かれているだけで、大島の名は伏せられている。ところが同じ号で渡辺公平が、やはり尾崎の思い出を語る中で、尾崎が大島の作品に不信感を抱いており、そこに《荒船と〜》の名が出たことに驚いた由を書いていて、両方を読めばおぼろげながら事の次第がわかってくる。

そのおぼろげな事情を明確にしたのが冒頭の《山岳文学の〜》ということになる。  

《井荻時代の〜》では大島の名を明かさなかった理由を、川崎さんは「ひとしく山を好む者として、大島は先輩格にあたる人だから、その名をあげたくなかった」とそこに書いている。

では、その『井荻時代の〜』から15年後、なぜそれをあからさまにしたのだろう。

渡辺も世を去った。尾崎が話したのは他にはないようだ。真相を知るなら書いておいたほうがいいとの岳友の勧めに、この事柄に興味を持つ人がまだあることを知った。ならばこんな話を記すのもあながち無駄ではあるまい、と川崎さんは書くが、いささか歯切れが悪い。

一方に親交があった尾崎への思慕があり、剽窃があったとはいえ「ひとしく山を好む者として、先輩格にあたる」大島の業績への尊敬もまた一方にある。大島は尾崎が山の文学の世界に現れる前に死んでいる。もし大島が穂高で早世しなかったなら、件の文章を後世に残すはずはなかったとの想いもあっただろう。そんな苦渋が歯切れの悪さとなっているようだ。また、このときすでに川崎さんは八十歳を越えている。今書いておかなければという、残された時間への懸念もあったに違いない。

ところがこの作者の苦渋こそが《山岳文学の〜》を稀な名文にした理由で、大島の弾劾だけに終わりかねない事柄を、うるおいと滋味のただよう、作品というにふさわしい一編にしたと私には思われる。

川崎さんはこの文章の中で、大島の《十文字峠》に描かれた、病児を背負った父親が、うなされる子を真紅に色づいた楓であやしながら峠道を越えていく情感あふれる光景を例にあげ、尾崎の詩の剽窃を知ったあとなら、それすらもフィクションか、よそから借りてきた話かと疑われるかもしれないと書いている。

私は川崎さんと数回会ったことがある。《山岳文学の〜》が書かれてからさらに10年以上もあと、ごく最近のことである。

その折、私は大島の《十文字峠》にまつわる話を川崎さんから聞いている。それも、まったく同じ話を繰り返し二度。

「《十文字峠》に出てくる楓のようなすばらしいもみじ紅葉が実際にあるものだろうかと疑っていたが、○○(場所を筆者が失念)で見た。大島の話は本当だ」

《山岳文学の〜》の最後で「少しばかり大島には気の毒なことをした」と川崎さんは書いているが、どうやら「少しばかり」とは思っていなかったようだ。

『アルプ』掲載の《井荻時代の〜》は77年、川崎さんの『山を見る日』(茗溪堂)に収められたが絶版である。幸い、99年に中公文庫の一冊となったから手に入れやすいとは思うが、文庫本では尾崎の詩が剽窃されたくだりを読むわけにはいかない。なぜなら、その部分がすっかり削られているからである。それを見れば、もはや余計な説明は無用だろう。

川崎さんがもういいだろうという「逸話」を私がこうしてほじくりだしたのは、この1月に川崎さんが満百歳を迎えたと聞いたからだった。前述したように、私の興味はここでは川崎さんにある。

昭和10年、原全教『奥秩父続篇』に収められた大菩薩沢の紀行に同行の友として登場する人。同16年、加藤泰三『霧の山稜』の絵に描かれている人。それ以外にも、私の中ではすでに伝説上の岳人らと、あたりまえのように親交のあった人。それが川崎精雄さんである。百歳とはそんな年齢だということに単純に感動したのである。

ホームへ  山の雑記帳トップ