『山と溪谷』2001年5月号に書いたものです。オピニオンのコーナーなので、もっとストレートな意見を書いたほうがよかったのかもしれませんが、正攻法の書き方は僕の好むところではありません。この文は、最後の「なんだ夢だったのか」という部分がなかったのですが、それじゃあちょっとという意見が出て、書きなおしたのでした。結果的にはこの方がよかったようです。その後全面的に書きなおして、最初の文とはだいぶん違ってしまいました。
快適な登山
山登りが趣味なら休日の朝は早い。寒い時季でも完璧なエアコンで起きるのが辛いということもない。最近は目覚ましにバッハのフルート曲を流している。数世紀も昔の音楽で現代人が気分よく目覚めるとは、人間の進歩なんて大したことはないのか。そうではあるまい。各人が部屋に居ながらにしてバッハが聞けることがいったい人間の進歩でなくて何だろう。 さて、車が行けるところまでは来た。なるほどここから登るのか。これからは携帯ナビの出番である。車戴ナビからICチップを取り出して腕時計にセットする。いや、もう腕時計という名前はふさわしくないな。リスト型携帯ナビに時計もついているというべきか。車戴ナビは常にインターネットにつながっているから、今までにこの山に登った人間の情報が自動的に蓄積され、日に日に精度が高まっている。今や1メートルの岩場までわかり、危険個所は迂回するように指示がでる。そうそう、見たってわからないから無駄かもしれないが、念のために地図の入ったICチップも持っていこう。 携帯衛星電話で、半径2キロ以内に範囲を設定して天気予報を見る。大丈夫のようだ。気温は相当低そうだが、衣類の進歩は家の外においてもすでに寒さから人間を解放している。問題はむしろ暑さである。はやく冷暖房完備のマウンテンジャケットができればいいなあ。そうだ、どうせ歩いているんだから、その動きを利用して発電すればいいわけだ。これは我ながら名案かもしれない。 でもおかげで無事頂上に着いた。すばらしい展望だ。なんと沢山の山々が見えることか。あの目立つ山は何ていう山だろう。これも今では簡単にわかる。携帯電話の画面に山を映してボタンを押すと……。へえ、富士山っていうのか。 しかし人間はわざと不便を楽しむことがある。こういうのを魔が差すというのだろう、ナビに頼らずに下れるかなと詰まらぬ考えを起こしたのが運の尽きだった。あっという間に沢筋に迷い込み、滝場で行き詰まってしまった。再びナビをオンにして、あらずもがなの登り返しをしているとき、心臓に圧迫されるような痛みを感じた。こんなとき無理は禁物だ。無理をしてあたら命を粗末にした人のいかに多いことか。愚の骨頂である。携帯電話で救助を頼む。ナビは自分の位置を相手に知らせるので心強い。ヘリコプターの音がし、救助隊員が上から降りてくるのに1時間とはかからなかった。いつも右腕にしている心拍血圧計が記録していた過去数時間のデータから、ごく軽症の狭心症と診断された。 あせりが心臓に響いたらしい。馬鹿なことをしたものだ。機内で適切な治療が速やかに施され、安心と疲労でうつらうつらしているうち、ヘリの爆音が次第に吹きすさぶ風の音に変わって……。
妙な夢を見たものだ。外は相変わらずの猛吹雪。独りきりのツェルトは今にも破れそうにはためく。停滞してもう何時間たつのだろうか。安物の腕時計は止まったままだ。だがそれがどうだっていうのだ。暗くなれば夜、明るくなったら朝、それだけのことだ。 人は文明に寄り添い、しかも対立する矛盾をはらむ。登山はその象徴的な遊びである。だからシンプルなほうが面白い。こんな厳寒の山に独りいる自分に湧いてくる奇妙な笑み。 |