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          甲斐駒ヶ岳(7月22日)             

甲斐駒ヶ岳は、北岳とともに、さんざんその勇姿を眺め、そして憧れながらもその頂きをなかなか手中にできなかった点では双璧だった。

いや、目にしたという点では北岳どころではない。甲府周辺に居るときは、それが里でも山でも、晴れている限りその姿を認めないことはなかった。

奥深く、前山にその姿を隠してしまう北岳に比べ、人里から突然盛り上がった甲斐駒ヶ岳の自己顕示ぶりは、富士山は別格として、まず甲州随一といっていいだろう。それ程顕著な峰である。富士の八面玲瓏をひとつの美とすれば、その対極にある無骨の美といえるかもしれない。山の形を崩しながらも、結果として全体の無骨の美に寄与しているのは、その肩口に従えた摩利支天の高まりだろう。

桂川、笹子川の谷間を延々とたどってきた国道二○号が笹子トンネルを抜け、甲府盆地に下って勝沼に入ると、突然空が広くなって、目の前にずらりと南アルプスが横ならびになる。その右はしに他から独立した形で甲斐駒ヵ岳が見参する。

甲府バイパスでは、まずは端正な金字塔であった甲斐駒ヶ岳は、国道が韮崎に入って釜無川に沿うようになると、前山に次第に隠れてしまう。そして、穴山橋で釜無川の右岸に渡り武川村に入るころ再び姿を現したときには、すでに金字塔は二の腕の力こぶのように盛り上がる摩利支天に均衡を崩されている。さらに、そこから白州町にかけては、甲斐駒ヶ岳の一大支尾根というべき鋸岳の文字通りの乱ぐい歯がさらに山の形を無骨にしながらも、その魁偉に加担する。

釜無川から、茅ヶ岳や八ヶ岳の裾野に一段上がった町や村からの眺めも素晴らしい。そこを通る中央本線の車窓からはいわずもがな。残雪の甲斐駒に桜をあしらった絵や写真のポイントが多くここにある。残雪の山と桜の組み合わせは、富士山のようなコニーデ型の独立した火山にはあるが、連嶺中の三千メートル級の山が単独で組み合わされて絵になるのは、甲斐駒ヶ岳をおいてはないのではなかろうか。里から突然盛り上がった山だからこそである。

山梨県の北西部、長野県と接するまでを北巨摩郡と呼ぶ。僕はその近辺の山に登った帰り、双葉町の公営温泉に浸かることが多い。そこの男風呂は南アルプス側に面していて、露天風呂こそないが、ガラス越しにその勇姿を眺めることができるからである。時間は夕暮れになることがほとんどだから、茜色に染まった空にシルエットになった連嶺を望むことになる。

湯船の中から、少し遠いが見まごうことのない甲斐駒ヶ岳の影絵が、黒さを増していく空に溶け込んでいくのを飽かず眺めていたのは、どこの山に登った帰りだったろうか。


標高差二千メートルをはるかに越える黒戸尾根からの日帰りなど問題外だが、北沢峠からの往復にしても、仙丈ヶ岳同様、歩程自体は日帰り可能にもかかわらず、バスの便のせいで二の足を踏んでいた。

二回目の北岳に登った九月の末、小太郎尾根の分岐から甲斐駒ヶ岳の白い頂上を眺め、たとえ急ぎ足になろうともあれに登らないわけにはいかないと改めて思った。

そのひと月後、世間に申し訳ないような秋晴れの日、ついに久恋の頂上に立った。

夜叉神トンネル、観音経トンネルと抜けると、深い野呂川の谷を隔てて聳え立つ白峰三山。特に中央を占める間ノ岳の膨大な山容。車で行けるところからの山岳景観では、その高さ、その肉迫度からまずは日本一といっていいだろう。白鳳渓谷の紅葉は少し盛りを過ぎた感じだったが、それでもあちこちでカメラマンが三脚を立てていた。

広河原からのバスも紅葉狩りの観光客で混んでいた。北沢橋を渡って道が北沢に沿うようになると、甲斐駒ヶ岳が一瞬雪と見まごうばかりの真っ白い姿を現す。ここでは摩利支天の印象が強い。乗客がどよめく。

知っている人は歓声をあげ、知らない人はあの異様な山は何だろうとお互いにささやく。知っている人が知らない人に教え、さすがにこのバスに乗る人に甲斐駒の名を知らない人はいない。「なるほどあれが」と車内は納得する。このバスに初めて乗る僕も、北沢峠までの三十分、飽きずに車窓の景色を眺めていた。

冷んやりした北沢峠へ着くと、脇目もふらずに双子山への径を登り出した。ひたすらの樹林帯の急登を一時間、飛び出した双子山からは、駒津峰の這松の斜面越しに甲斐駒ヶ岳が姿を現した。なるほど、これは白崩山である。

すぐ後ろにいた妻はいつしか見えなくなっていて、ここでさんざん待たされる破目になった。やきもきして待っていると、やがてプリプリしながら姿を現した。振り返りもせず、さっさと行ってしまったので怒っているのだ。歩き出すまでは、その日の調子はわからない。この日、妻は出だしの調子があまり良くなかったらしい。

とにもかくにも、言い合いをしている時間はない。駒津峰との鞍部への下りを呪い、駒津峰から六方石へのちょっとした下りを罵って急ぐ。

六方石から頂上への直登ルートには呪うべき下りもなく、はやる気持で登ったせいか、最後はあっけなかった。空が近づいたと思ったら、その向こうにはもう高いところはなかった。

そこには誰ひとりいなかった。小広い白砂の頂上をあちこち歩き回り四囲の眺めに狂喜した。今まで甲斐駒ヶ岳を眺めていた山々を今度はこちらからなめるように点検した。おそらくこの山をこれまで眺めた場所はひとつ残らず視野にあったはずだ。それ程大気は澄んでいた。

食事をする間もあらばこそと、パンをかじりながら頂上を独占した喜びにこれでもかと足跡をつける。美しい白砂に足跡をつけるのがもったいなかったと書かれている深田久弥さんとは大違いである。

頂上での与えられた時間はせいぜい四十分だった。たとえ短い時間でも、この好天の頂上を独占できるとはなんとも幸運だと思っていたら、摩利支天の方から恐ろしい勢いで登ってくるひとりの男を認めた。頂上独占もそれまでかと思ったが、こればかりは仕方がない。なんといっても人気の高い『日本百名山』だ。そして、それはすぐ証明された。

その男はあっと言う間に頂上に辿り着き、開口一番こう言った。「あなた方も百名山ですか」これはまずいと思ったがもう遅かった。

「いや、別にそういうわけでは」と、もごもご言うが、すでにその五十がらみの男はこちらの言うことなど聞いてはいない。人の話は聞かずに自分だけが話していたい人はどこにでもいる。これはこちらが喋っている時は、どこで自分が割り込もうかと、そのことばかり考えているから目がうわの空になっているのですぐわかる。こちらの喋ったことに対応するのは意味のない相づちだけ、という点でも判別できる。

単独登山の人には、取りつくしまもないような人もいるが、この手の自分だけ話したくて仕方がないといったタイプも多いようだ。人恋しくなるからだろうか。それが、この国には日本百名山以外の山は存在しないという思想を持つ人だったりすると、これは最強である。我々はなすすべもなく、百名山苦労話を聞かされる破目となる。

貴重な時間は刻一刻と過ぎ去る。バスに間に合わないからと、なんとも正直な理由を告げて、誰にもわずらわされずにいつまでも頂上で四囲の眺めを楽しんでいたいという僕たちは下ることになり、眺めなど二の次で誰かと話していたそうなその男は、幸か不幸か、たった一人で頂上に残されることになった。その日は仙水小屋に泊まって、翌日仙丈ヶ岳を目指すというその男には時間がたっぷりある。きっと次の獲物を首を長くして待ったことだろう。

帰りは巻き径を下った。途中でいつもポケットにいつも入れている地図がないのに気付いた。双子山で妻を待つ間に開いただけだったので、そこに忘れたのに違いない。仙水峠経由で下ろうと思っていたのだが、地図を捜しに往路を戻ることにする。地図の値段などたいしたことはないが、他ならぬ甲斐駒ヶ岳を眺めた山々に登ったときに携えていた、思い出深い朱線のはいった大事な地図である。

しかし、地図はそこになかった。頂上以外で人に逢わなかったので、双子山にだけ登った人が拾っていったのだろうと思われた。北沢峠にバスの出る五分前に着いて、小屋にひょっとして届いていないかと尋ねてみたが、なかった。

残念な思いでバスに乗り込み、隣に座った中年の夫婦と話していたらなんとその夫婦が僕の地図を拾ってくれた張本人だった。朝僕たちと同じバスで来て、のんびり双子山に登り、地図を発見したという。擦り切れて汚れた地図など小屋に届けるほどの物には思えなかっただろう。

諦めていた地図も無事戻り、百名山男にはわずらわされたものの、なにより素晴らしい天気だった初めての甲斐駒ヶ岳は、まずは大団円とあいなった。


観光業である僕は、書き入れ時の夏休みに入れば、例年九月に入るまでは休みが取れない。山には身体をリフレッシュさせる薬効があって、一ヶ月もどこにも登れないとなると、その持続効果の高い山に登っておく必要がある。その山で夏を乗り切ろうというわけだ。

そんな夏休み突入用の山に白州町の山を選ぶことが三年続いたことがあった。その山々が、双子山で失いかけた二万五千分の一地図『長坂上条』にある、甲斐駒ヶ岳の遥拝所の残る鞍掛山や、その先の大岩山、そして水晶薙を見にいった雨乞岳である。暑い山登りだったが、濃い緑とこの山域特有の風化した花崗岩の白、そして清冽な水がいかにも夏らしく、すっかり気にいったのである。

渓を背負って仙丈ヶ岳に登った翌週、返す刀で甲斐駒ヶ岳にも登ろうとして、天気に災いされ、縞枯山に変更した経緯はもう書いた。そうなると甲斐駒ヶ岳は懸案として頭に残ることになる。

白州町の山の代表取締役とも言うべき甲斐駒ヶ岳は、夏休みを乗り切る山としては、まさに最適である。それに、すでに夏休みシーズンに 入っていて、先年運行を始めた早朝の北沢峠行きのバスが利用できる。二時間の余裕は、渓を背負っていく身にはありがたい。

前日の予報はあまり良くなかったが、信じないで寝た。朝、少し寝坊して慌てて出かけた。バスに間に合わなければ一大事である。飛ばしに飛ばして一路芦安村へ向かう。途中、真正面に見える南アルプスの連嶺は雲に覆われていた。それでも、夜叉神トンネルを抜け、山ふところに入れば、朝もやを溶かして陽光降りそそぎ、白峰三山が夏の青空にくっきりとそびえ立っているはずだった。

期待はものの見事に裏切られ、トンネルの先にはどんよりとした黒い空が待っていた。これはいったいどうなることかと広河原へ進むうちには、進行方向、すなわち目指す甲斐駒ヶ岳方面の空にみるみる青い空間が拡がり始めた。科学の粋を集めた天気予報も、我々の日頃の良い行いにはかなわないらしい。

バスの出る十分前に広河原に到着。慌ただしく用意を済ませ、渓を抱えてバス停に走った。夏休み期間に入っているので混み合うかと心配したが、二台のバスで余裕があった。

北沢峠で降りると、原生林の中の林道を北沢長衛小屋へ歩いて行く。朝の冷気が気持ちがいい。北沢峠からはいつも時間との戦いのような登山なので、二時間早く着くとのんびりした気分になってしまう。しっとりとした峠付近の樹相を味わう余裕がある。

北沢の河原の広いテントサイトには色とりどりのテントの花が咲いていた。さすが夏休みである。山に学生らしい若者が多くいるのは、久しぶりに見る光景である。いかにも夏山といった感じがする。

長衛小屋の前に陣取って朝食を摂ってから北沢に沿って歩き出した。以前、栗沢の頭に登った時は、直接登る径を辿ったので、仙水峠へのこの径は初めてである。

数年前、地元テレビ局が夏の南アルプスを特集した番組を放送したことがあり、その中に、仙水峠への途中にある仙水小屋のご主人の矢葺敬造さんが登場していて、水力発電をはじめとする自然との共存の仕方に尊敬と興味を覚えた。電気は東京電力、車が横づけできて近くのコンビニエンスストアまで二十分もあれば着いてしまう僕の山暮らしとは雲泥の差とはいえ、やはり同じ山暮らしの人には、つい親しみを感じてしまう。

その後、古本で求めた甲斐駒と鳳凰三山を特集している、もう十年以上昔の山の雑誌に偶然矢葺さんの記事もあり、詳しくその人を知ることができた。小屋に行くことがあれば、お顔を拝見したいものだと思っていた。

沢を左岸に渡って、水力発電の設備を見ると、その上が仙水小屋だった。目に入った人の中にはテレビで見た矢葺さんの顔はなかった。残念だが仕方がない。わざわざ呼び出してもらっても、相手は迷惑なだけだろう。小屋の脇に引かれたうまい水をぐっと飲み干して、出発した。

傾斜が緩やかになって、木の密でない小広い森の中を径は蛇行する。僕は山の中に現れる平坦で明るい感じの森が好きで、素通りできずに立ち止まって辺りを見回すことがある。

僕はそんな時、そこに自分の小屋を建てて、そこで暮らしたらどうかと想像している。生活のよすがまでは考えない、もっと漠然としたものだ。それは、山を明確な意識を持って好きだと思うようになるずっと前、まだ幼い頃から僕の中にあった想像のように思われる。

森の中の一軒家。まわりには妖精も住めば、魑魅魍魎もいる。恐ろしいけれど、いわくいいがたい魅力がある。童話にはつきものの設定である。そして、そこに住む自分。いったい何が起こるのだろう。いろんな空想が湧き起こる。夢見るときを過ぎた今でも、僕を気にいった森の中で立ち止まらせてしまうのは、そんな子供じみた空想である。

その森を抜けると、白鳳峠に至る径と似た明るい岩塊斜面に飛び出した。実際に同じ組成によるものらしい。白鳳峠では、振り返ると北岳があった。ここでは仙丈ヶ岳がその位置にそびえている。

まもなく仙水峠。数人が休んでいた。摩利支天が入道のようだ。地蔵岳のオベリスクも顔を出している。大武川に下る径はわからない。跡かたさえないのだろうか。広河原峠、白鳳峠、早川尾根の峠のことごとくが東側の径の廃れてしまったのは、水害に弱い険しい沢沿いの径だったこともあろうし、時代の趨勢でもあろう。二度と再び一般的な径が開かれることもあるまいが、惜しい気もする。

時間のない僕たちはほとんど休まず、駒津峰への急登に向かう。

木の根の張り出す径のひたすらの登りだ。振り返ると、アサヨ峰と栗沢の頭が仲良く並んで、頂上までびっしりと緑に覆われたその姿は、いかにも夏の南アルプスだ。

木の間に見える甲斐駒ヶ岳主峰が摩利支天の存在を圧倒しだすと、森林が途切れて、急登は相変わらずだが、息をつくにも周りの風景が慰めてくれる。後ろには北岳がひとり孤高に天を突いている。

まもなく駒津峰に到着しそうなので、渓のオムツの点検をする。駒津峰にはきっと大勢の人が休んでいるだろうから、せっかくのうまい空気に異臭をまじえては迷惑だろうという配慮である。

思ったとおり駒津峰は賑わっていた。もう登頂を終えた人がほとんどのようだ。夏は特に早出が原則だ。その証拠には、もう甲斐駒ヶ岳は湧き出した雲に姿を隠しつつあった。渓に気付いて激励してくれる人が多い。いい記念になったと喜んでくれる人もいる。その人の言うには、頂上にはもう八十になるというご老人がいて、山中稀な両極端の年齢に出会えたのがいい記念になったというわけだった。

見えなくなった山頂を目指して出発する。六方石までは、尾根が細くなり、すでに登頂を終えて下ってくる人も多く、すれちがいに少し手間どったりした。六方石の手前で一瞬姿を現した甲斐駒ヶ岳は、それきり霧のベールの中に隠れてしまった。

迷わず直登ルートをとる。少し左へ行き過ぎて、慌てて軌道修正したり、とても動きそうもない大岩が足をのせたらグラッと動いたりして、冷や汗をかいた。

前回はあっと言う間に感じた頂上までのみちのりは、今回はずいぶん長く感じられた。岩稜帯が終わり、花崗岩の白砂を彩る這松の青松を縫うと、ようやく空が近づいた。

霧で何も見えない。人は多いが、広い頂上に散らばって混み合った感じはしない。高校生らしいパーティーがいるのは夏山らしい。展望がないせいか、静かに感じる。

昼食を済ませて、何枚か記念写真を撮る。例によって山梨百名山の標柱を三脚がわりにした。下界が見えないので渓ばかり撮った。

大きな石の祠の中の金銅仏は、前回は外に出ていたと思うが、この日は中にいる。以前見た何枚かの写真でも外にいたり中にいたりした。人知れず自分で出入りしているとすれば大したものだ。さすが甲斐駒の仏である。

最終バスに間に合うのに頂上の滞在に許された時間は一時間くらいしかなかった。前回より二時間多い持ち時間は登りで費やされてしまっていた。一瞬、円形に開いた雲の中に野呂川の谷が姿を現したが、それと同時に顔にぽつんと当る雨滴を感じた。下らなければならない。

摩利支天の分岐あたりで雨が多くなりはじめたので、ベビーキャリアを八十リットルのザックカバーでまるごと覆ってしまう。こうすると、単に巨大なザックを背負っているようにしか見えない。

駒津峰も立ち止まらず通過する。双子山で甲斐駒ヶ岳を振り返ったが、雨に煙った空がただ白く拡がるばかりである。

北沢峠への樹林帯へ入ると雨がしのげた。中高年のパーティをどんどん追い越していく。頂上で出会った人も多いらしく、激励を受けたりし
た。

北沢峠にはバス待ちの登山客が大勢いた。待合所の仮設テントの中に渓を降ろしてザックカバーをはずすと、中から赤ん坊が現れたので、皆驚いている。僕は峠の小屋に走った。ビールを買って戻り、ささやかにひとり乾杯した。甲斐駒ヶ岳とわがパーティーに。

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