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                  常念岳(10月20日)         

愛読する大森久雄さんの『本のある山旅』の中に、「岩登りは別として、一般的な登山道で、小気味よい、という表現があてはまる登りは、私の知る限り、ここと(両俣から北岳への最後の登り。筆者註)、北アルプス常念岳の三股から前常念への最後の登りとが双璧である。」とあって、いつかその小気味よい登りを味わいたいものだなあ、と夢想していた。

なかなか連休の取れない身としては、車を降りてからのアプローチが長い両俣からの北岳は、まず不可能に近い。一方、常念岳の方はどうか。

三股からの標高差は千五百メートル。日帰りとしては僕の限界に近い行程だが、不可能ではない。登山口までが遠いという難点があるものの、高速道路を使えば、三股まで片道二時間で済むことは九月の蝶ヶ岳で調査済みである。二時間といえば、距離的にはずっと近い広河原までの所要時間と変わらないのである。

全く、山村正光さん言うところの「親の死に目に会いにいくような登山」で、山麓歩きのプロローグはまるでなく、ひたすら山頂のみを目指すという潤いのなさ。もっとも、この中央集権国家では、あらゆる都会が同じ顔をしているのと同じく、どこの山麓も、もはや似たような家並みが続くばかりで、歩く価値などあまりなくなってしまった。

常念岳は、大学時代の唯一の北アルプスだった中房温泉から上高地までの縦走のさいに頂上を踏んでいるが、その記憶はすでにない。幕営した常念乗越の記憶があるものの、それはたまたまそこで写した写真が残っているからで、それがなければ何も覚えていないかもしれない。

生まれて一年にしかならない渓の顔だって、一年前の顔は、写真を見て、こんな顔だったかなあ、といぶかしく思うくらいである。

昔の人は、自分の子供が赤ん坊だった頃の顔をどのくらい覚えていられたのだろうか。自分が赤ん坊だったときの顔すら当然知るはずのない昔の人は、自分の子供に初めてそれを見、ことさら印象に強く残ったのかもしれない。

まったく、写真というのは、記憶を助けるのだか、妨げるのだかわからないところがある。山本夏彦さんが「写真に残そうとするのも吝嗇の一種である。忘れるものは、忘れるがいいのである」というようなことを書いていた。悔しいがそんな気もする。

とはいえ、いまだに山に登るときカメラを置いて行く勇気はない。せっせと撮っては、記憶に残したつもりになって、その実、頭の中に残そうという努力はなおざりになっているのである。この文章も、写真を見返しながら記憶をたぐりよせて書くことも多く、いったい俺は山へ写真を撮りにいっているだけなのか、と思うこともしばしばだ。

さて、渓の誕生日には、天気に恵まれず、軽い小楢山登山で終わってしまった。一才の記念にどこか高い山で快哉を叫びたい。いまだ雪の便りを聞かないアルプスも、十月中ならまだなんとか登れるのではないかと思っていた。

どうせなら新鮮な山がいいと、もう記憶もほとんどなくなっていて、しかも大森さんの本で気にもなっていた常念岳が浮上したのだった。

二万五千分の一地形図『信濃小倉』を見ると、三股から、前常念岳から延びる尾根に乗るまでの標高差千メートル近く、まったく嫌になるくらいのジグザグの登路が記されている。まさしく一気呵成の登りである。だが、日帰りの山ではむしろこんな一気の登りのほうが好ましい。同じ径を往復する場合はなおさらで、前山を越えてなんていう縦走めいたことになると、登っている間に下りの苦労を思って嫌になってし
まう。


長丁場ゆえ、朝四時前には出発した。こんな早くから起こされる渓にはいい迷惑かもしれないが、車の中でまた寝るのだし、僕の背中でも半分は寝ているのだから問題はないだろう。ま、こうやってまず赤ん坊が行かないような場所へ連れ出せるのも、渓が健康なおかげで、これは親が何かしてやったからそうなったわけではなく、天与ともいうべき幸せを素直に喜ばなければならない。

八ヶ岳の裾野を走るうちに明るくなりはじめるが、不吉に垂れ込めた雲のせいで、一気には明け切らない。塩嶺トンネルを抜け、松本平に入っても空模様は変わらない。もう乗りかかった船ならぬ、登りかかっている山。遠い山ほど引き返し難い。山梨県内の深田百名山を悪天候にもかかわらず登っている人を見て、地元の僕は御苦労様なことだなあと思うが、遠くからはるばるそれを目指して来ている人ならば、少々の雨くらいでは諦められないだろう。人の命に限りがある以上、山は逃げるのである。

三股に着いてもどんよりした曇り空。広い駐車場は閑散としている。寒々しいので、車の中で弁当を使った。

渓を背負っての歩き出しも、天気のせいで、口笛吹いて軽やかにとはいかなかった。もっとも、渓を連れて山に登りだしてからは、日帰り登山には重すぎる荷物にいつもあえいでいるのだが。

林道終点から初めての径となる。ひとしきりの急登ののち、沢の増水時の蝶ヶ岳への迂回路を分けると、すこし傾斜が緩くなるが、それもわずかで例のジグザグの登りになる。

霧は濃くなって、雨滴すら混じりはじめる。天気が悪いと、登山者はまるで苦行にあえぐ修行僧である。ただ耐えて一歩一歩高みへと向かう。

一服した時に、妻から、今日はもう中止にしようという提案がでた。ともすれば、僕もそんな気持ちになりそうになりながら歩いていたのだが、蝶ヶ岳に登った時に頂上で雲の上に出た感激が忘れられず、今回もそうに違いないと、根拠もないのに淡い期待があって、とにかく森林限界付近までは登ってみようと、妻を説得した。

ジグザグの急登をやっと終え、緩やかな尾根径となる。渓が珍しくぐずるので、ベビーキャリアから降ろしてあやしていると、一瞬空の白さが増したかとおもうと、その中から黒い壁のようなものが現れてきた。

「おおっ」とおもわず声を上げた。雲の上に出たのである。見えてきたのは蝶ヶ岳の稜線だった。這松の緑以外の部分は茶色に沈んで秋色濃い。

天は我等を見捨てなかった。霧の中の行進で意気があがらなかったのが、まったく現金なもので、こうなれば俄然元気になって「ヤッホー」などと叫んだりする。馬鹿じゃなかろうか。

ぐずっている場合ではないと、渓を背負って先を急ぐ。ほどなく森林限界に出て、同時に雲海の上に浮かび上がった。真白い大海原である。八ヶ岳、富士山、南アルプスが遠い島となって、彼方に浮かぶ。蝶ヶ岳は陸続きの同じ島。入江や断崖をつくっている。

さて、ここからが大森さんのいう小気味良い登りである。巨大な花崗岩を縫うように登っていく。常念岳から蝶ヶ岳へ続く稜線の上に穂高の峰々が姿を現し、こちらが登るにつれ、次第にせりあがってくる。振り返ると、登ってきた尾根が鯨の背中のように海に浮かんでいる。

相変わらず、渓は背中でぐずっていて、せっかくの小気味良い登りも悲壮感が漂ってくる。平坦な径ならば歌でも唄ってやろうものの、小気味良い、即ち傾斜が強い登りとなれば、息が切れてそれどころではない。いつか、重荷から解放され、余裕のある日程で小気味良く登ることもあるだろう。

やっとの思いで前常念の避難小屋にたどり着く。すでに蝶ヶ岳を見下ろす高さである。しばらく休んだのち、さらに高みを目指す。

避難小屋からわずかで前常念岳に立つと、初めて常念岳が姿を現した。まだまだ遠く感じるが、いったん下ってまた登りなおすわけではないので気は楽である。

左側の穂高に目を奪われがちだが、右側には横通岳や大天井岳がま近く尖った稜線を連ねている。そして遥かに遠く、まだ名しか知らぬ山々が。

急な登りも終わって、本来ならば至福の山稜漫歩というところだろうに、すでに僕の足は音を上げはじめていて、不吉に筋肉がピクピクするのが悔しい。

常念山脈の主稜線が近づくと、ついに槍ヶ岳が穂先を現す。今度は視線はそちらに釘づけとなる。蝶ヶ岳で出会った人が、槍ヶ岳も眺める山で、登る山ではないと言っていた。本当だろうか。よほど混雑した時に登ったのかもしれない。山の印象を悪くしないためにも、山は空いている時期に登るべきである。

常念乗越から来る主稜の径を合わせると、そこに半分白くなった雷鳥が二三羽遊んでいた。僕のカメラのフィルムはちょうどなくなったところだった。詰め替えているうちにどこかに行ってしまう。たまたま妻がコンパクトカメラを持っていたので、槍の穂をファインダーに入れるようにして撮れと指示した。いったいに、妻に撮らせると、むやみに空が多かったり、人の身体が切れていたりと、ろくな写真が撮れたためしがないのである。しかし、この時は奇跡的に「槍ヶ岳には雷鳥がよく似合ふ」と、つい言ってしまうような傑作が出来上がった。妻生涯の傑作となるだろう。

わずかの登りで、ひょこっと頂上に出た。方位盤と祠がある。数人が付近でくつろいでいた。視界を妨げるものは何もない。西から北にかけて以外はあいかわらずの雲の海。乗鞍岳や御嶽山も巨大な島となってその上に浮かぶ。遠く北の方、仲良く並ぶ三つの小島は頸城三山か。

四囲の景色を眺め尽くしたいが、機嫌のなおった渓が、そこらの岩でボルダリングをしようとするので、目が離せない。

途中、追い越し、追い越されしながら歩いてきた男女の二人連れも到着する。結局この日、頂上以外で会ったのはこの二人だけだった。小屋泊まりなのだろうか。羨ましい。

一時間を過ごしたのち、周囲の山々に別れを告げて頂上をあとにした。白い大海原に向かって降りていくことになる。富士山は遥か遠く、あそこまで今日のうちに帰るのかと思うと気まで遠くなる。

前常念岳ではまたも雷鳥に遭遇、カメラで追った。樹林帯に入ると、だましだまし歩いていた僕の足の筋肉がついに情けなくも大痙攣を起こした。痛みに声が思わす出てしまう。

ここからは妻に渓を背負ってもらった。まわりはいつしか再び霧の海の中となる。朝方よりは薄くなっていた。嫌になるような下りののち、蝶ヶ岳の径を分けるころには、すでにあたりは暗くなっていた。懐中電灯なしでは歩けないような闇があたりを覆いはじめた時、間一髪で林道に出た。

堀金村の温泉の露天風呂に浸かって、足をマッサージしていると、家まで帰るのが面倒になってきた。ここに泊まって、朝帰ればいいじゃないか、たまにはそんな贅沢もいいだろうと思い、フロントで聞いてみると、特別室しか空いていないという。値段を聞いて、即座にいさぎよく帰ることに決定した。無い袖は振れぬ。

蝶ヶ岳の時と寸分変わらない形で家まで帰ることになった。豊科市街で栄養及び水分補給をし、さらに中央高速をひた走る車の助手席でも、なお足らない水分を補給しつつ帰ったということです。いつも同じで申し訳ない。これからは、くどくど書かずに、山から下ったあとの出来事は、以下同文としておけばいいか。

翌日、里では冷たい雨が降った。中部山岳ではその雨が雪で、一気に冬の装いになったという。僕たちはこの年最後の秋の日を常念岳に遊んだことになる。

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