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             富士見山(2月2日)

櫛形山から南下して早川に至る山並みを櫛形山塊と、小林経雄さんは『甲斐の山山』(新ハイキング社)の中で区分している。人気の高い櫛形山はそれにもかかわらず相当深山の気の漂うところだ。それから南に連なる山はまず登山者の少ない場所だからなおさらで、人里にすぐに接した山だというのに、分け入ってみると随分奥深いところまで来たような感じがする。

この山塊では櫛形山を別格とすれば、次に人の訪れのあるのは富士見山であろう。麓の宗教団体の奥の院ということもあって、特に平須からの登山道は良く整備されている。

僕が初めて富士見山に登ったのは山村正光さんの『山梨の山』(山と溪谷社)を参考にしてのことで、もう五年前の錦秋であった。堂平の〈甲斐やすらぎの宮〉なる建物の脇から登り、奥の院のある一般に頂上とされる富士見山と三角点のある地図上の富士見山を往復して平須に下った。

このとき辿った堂平からの径も平須への径も二万五千分の一地図『切石』になく、普通そんな場合は自分で破線を入れるのが常なのに、その時地図を忘れたのか今となっては思い出せないが、地図は真っ白のままで、それがどうにも気にかかっていた。

富士見山の北に御殿山がある。その北の十谷峠に車道が通じているので、そこから往復する人はあるようだが、本来あった麓の十谷温泉からの峠道は廃れていると聞いていた。

富士見山に登ってから一年少したった一九九五年一月一八日、その廃れかかった径を探してこの山に登った。この日付を見て思い出す人もいるかもしれない。神戸大震災の翌日である。

叔父一家が神戸に住んでいる。僕の実家を通じて幸い全員無事であることは確認したが、家は全壊したという。テレビを通じて刻々と入ってくる惨状を横目に山へ出かけるのはいかにも後ろめたい気がした。といって休日に山へも行かずに地震報道一色のテレビを日がな一日高みの見物をしていてもどうにもならない。この世の惨事の多くは対岸の火事だが、自分が火事になったとき、僕のような人間がどれだけ他人に甘えられるというのだろう。

十谷温泉から登る途中のか細くなった径の脇に、古いガイドに大草里と地名の入っている場所であろうか、陽の射さない暗い林の中に鍋や食器が散乱し、建物の礎石のようなものもあって、人の暮らした跡と思われた。いったいに廃墟というのは物悲しい。人の営みのはかなさ、むなしさを感じさせる。特にこの日は神戸のこととあいまって、ほとんど鬼々迫る光景にも思えた。

高曇りのうすら寒い日で、頂上までなんとか登ったものの、山の印象なんてその日の気分でころころ変わる。御殿山には申し訳ないが今ひとつ楽しめない一日であった。

今回は、前回と同じ径を辿って富士見山と御殿山を結ぶ稜線に出、まず御殿山を往復してまだ歩いていない部分に朱線を入れ、さらに富士見山に登った後、これまた前回と同じく平須に下って地図の空白に自ら破線を入れようという計画である。



家族とクリオを乗せた軽ワゴン車は国道一三九号と別れて国道三○○号に入る。五千円札に採用されたとたんに有名になった本栖湖の富士を左に見る。たまに通る平日の朝ですら三脚が林立している。休日は推して知るべし。写真を撮るより場所を取るのが大変らしい。何もお札と同じ富士山を撮らなくてもよかろうに。

中之倉トンネルを抜けると今まで富士山に牛耳られていた景色が一変、富士川の深い谷を隔てて山脈が幾重にも横並びになる。最奥に白き頂稜を並べるのは赤石山脈。その手前、白峰南嶺では笊ヶ岳の双耳峰がひときわ目立ち、さらに手前の一段低くなった山並みの中では七面山の大ガレが異彩をはなつ。これから登る富士見山や御殿山はそれらの最前衛にあってなんとも小粒である。

国道の途中に展望駐車場がしつらえてあり、そこで朝食のパンをかじりながらこんな風景を見ていた。

いったん富士川べりまで下って中富町内に入り、富士川支流の寺沢川に沿って高度を上げていく。古いガイドでは富士川沿いに走る身延線の駅を起点にしているのがある。となると富士見山まで標高差千四百メートルをこなすことになり相当辛い行程である。車に慣れた僕たちにはもう無理だろう。

久成に入ると羊腸に延びる道の両側におびただしい数の句碑が建っている。町が句碑のある里作りを推し進めているからで、誰でもお金を出せばここに句碑を建てられるそうだ。石に字を刻むのは自分の生きた証を残したいという気がはたらくからで、となるとそこには情念がこもることになる。それが林立するさまはいっそ不気味にも感じる。もっともこんな文章を書き連ねているのはもっと不気味か。

堂平に着く。地図を見ると実に複雑で急峻な地形の中にわずかにある平地に点々と集落があるのがわかる。ここもそのひとつ。絵に描いたような冬の山里である。幟はためく〈甲斐やすらぎの宮〉近くの道が広くなったところに前回同様車を停め、用意をしてすぐ出発する。

〈やすらぎの宮〉の建物の脇を通って登山道はまず暗いスギやヒノキの植林の中に入っていく。そこでクリオを放す。いつものようにあっという間にどこかへ消え去った。

上の方でしていたチェーンソーの音がだんだん大きくなって間伐作業中であった。その結果すこし明るくなった径はやがて東西に延びる尾根に乗る。そこに小屋が建っている。作業小屋だったのだろうか、割としっかりした造りである。この前で一服とした。

ここから上はだんだん植林がなくなって自然林となる。と同時に雪も現れ、それが凍りつき軽アイゼンがほしい場面もあった。たかをくくってアイゼンなど持ってこなかったのをすこし後悔する。登りは何とかなっても下りが心配である。

町界尾根にのるとブナの大木が多い。前回は好天で、陽光が照り返したり透けたりする紅葉黄葉が素晴らしく、うっとりしながら歩いたのを思い出す。今日の冬木立もそれはそれで風情がある。

やがて径は町界の北側を辿るようになって雪も深くなった。踏跡とてない雪をラッセルするのはたとえくるぶしの上くらい量でも長く続くとつらい。傾斜があればなおさらである。御殿山と富士見山を結ぶ主稜にやっと出るころには相当参ってしまって、当初の計画だった御殿山の往復はあっさり断念し、富士見山だけに目標を絞ることにした。ここに径に軽アイゼンが片方ころがっていたので、たとえ片方でも下り用にあったほうがましかと拾う。

標高点一六二七には念力大明神と書かれた、塩化ビニールのパイプで造られた鳥居と、昭和三十四年の日付の入った石祠があった。その先で東に平須への径を分け、ひと登りすると登拝記念の木札が散らかった奥の院。地図上の富士見山はもっと南だが、眺めもないただ三角点があるだけのところなのは前回確認済みである。ここを頂上としていいだろう。大きな富士見山の山名標も立っている。しかしその脇には山頂まで三〇分と書かれた札もかかっていて紛らわしい。

西側に連なっているはずの赤石山脈はあいにく厚い雲に没している。富士見山なのだから当然富士山はということになるのだろうが、それは僕の場合後回しとなる。良く見ると毛無山の上に半分雲に隠れながらもちゃんと自己主張している。いまいましいと思いながらもつい写真を撮ってしまった。

やっとベビーキャリアから解放された渓は歩き回りたがるが、狭苦しい頂上ではそんな場所はない。無理やり座らせて昼食とした。眼下にたゆたう富士川の流れを見下ろしながらパンをかじったが、じっとしていると寒さが身に沁みてくる。早々に下山とする。

平須への径は最初こそ雪が凍って慎重を要したが、やがて南東に延びる尾根を辿るようになると雪も消え、片方だけのアイゼンも不要となった。約一一五○メートルまで下ると径は北にトラバースして今度は東へ延びる尾根にのる。登拝路なので道標は整備され迷う場所もないが、相当に傾斜の強い径なので楽とはいえない。ま、それも修行ということか。

今回は地図に自分で破線を入れるのがひとつの目的である。時々立ち止まっては地図を眺めながら二時間弱で車道に出た。そこから渓を背中から下ろし、歩かせた。逆に今まで自由の身だったクリオはつながれた。僕の身体は軽くなり、無重力状態とはかくやという気分になった。

山の喜びは山頂にあり、また人里に辿り着いたときにある。一日を山で無事にしかも充実して過ごした喜び。ああこれで天の美祿にあずかれる(どうもこれが最大の喜びらしい)。というわけで歩みがスキップのようになった。格調高く終わりたいのにどうも即物的でいけませんな。

山の茜を顧みて 一つの山を終りけり 酒の俘のわが心
早も急かる赤提灯。

深田久弥さんスミマセン。

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