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ガイドブックの来し方行く末

およそ山に登る人でガイドブックの世話にならなかった人はあるまい。山関連の本をジャンル分けして「ガイドブック」の項を設けるなら、種類、発行部数とも断然他を圧するに違いない。

にもかかわらず、ひと度古くなるとガイドブックほど顧みられない本もない。新しい情報を盛り込んでこそ良しとする実用本の宿命であろうが、その来し方行く末は、そのまま登山の来し方行く末と重なるだろう。

登山という遊びはまぎれもなく近代文明の落し子で、イギリスなら産業革命後にアルプス登山が始まり、我が国でも明治の文明開化後に今に通ずる登山が芽生えたのはいかにも象徴的である。それまで考えもしなかった異境への旅を交通機関の発達が身近にしたのである。

まず、どんな国でも貴族や富裕層に登山の機運が盛り上がったのは、ただ未知を探るためだけに山頂を極めるという発想が、明日の食事を心配する生活から生れるはずはなく、当然といえた。その後、近代化の恩恵が下々に及び、「余暇」という摩訶不思議な時間を生み出した。  

近代文明は自然の脅威を克服しようとし、まずそれは都会を都会たらしめた。ふだんの環境が都会的になるほど自然を希求する人が多くなるのは、結局は人間もまた自然の一部であることを示すが、それらの人々が「余暇」を登山に費やすことになり、登山人口は増えていったのである。

また一方、近代文明は物事を合理化する体系で、すなわち、人間の持つ限られた時間をいかに有効利用するかという命題の解決にほかならなかった。だからあらゆる近代文明の所産は擬似タイムマシーンであり、ガイドブックもその例外ではない。 

今や古典ともいえる探検登山記や山岳紀行も、後進にとっては一種のガイドブックであったが、それでは時間を切り売りして暮らしている給与生活者の登山の便宜をはかるにはまだ具体性に欠けていた。先駆者と後に続く者では山への対し方が異なる。

ガイドブックのはしりとも言える、河田驍フ『一日二日の山の旅』(自彊館書店)が大正12年に出版され、またたく間に版を重ねたのは、少ない休日を効率的に使って登山をする方法を求める気運がすでにあったからだろう。もっとも、ガイドブックといっても、この本はむしろ紀行文集の色合いが強かった。

その後、河田が高畑棟材との共著で昭和6年に出版した『東京附近の山々』(朋文堂)では、より具体的なコース案内となった。それは発行月の間に7版を重ねたすさまじい売れ行きで、たった十年足らずの間に一気に登山熱が高まったことをうかがわせる。この巻末の広告を見ると、すでに朋文堂だけでも何種類ものガイドブックが出版されていることがわかる。

そして現在に至るまで、おびただしい数のガイドブックや雑誌が現れては消えていった。   

私は、ことに自分に関わりのある山域の古いガイドブックに興味があって、それが古書店に並んでいるときには求めるようにしているが、これらを年代順に眺めると、例外はあるにしろ、新しくなるほど山の地誌や自然科学的な研究、さらには著者独自の主張など、実際に山に登るためにはとりあえず不要な部分はどんどん削られ、コースガイドの文章も個性のないただの道案内となり、少なくなった活字に代わって写真が多くなる。ガイドブックの著者に山岳写真家が多くなっていったのは昭和40年頃からではなかったか。

内容や体裁を変えこそすれ、それでもガイドブックは売れ続けた。古くなるとないがしろにされる分、新しい間は売れるのである。ところが、昨今のインターネットの普及はついにその先行きを危うくしつつあるように見える。

ガイドブックは情報の新しさや量ではインターネットに勝ち目はない。有名な山を検索すれば何十万件もの記事があり、そこにはつい昨日歩いた山日記まで出ているのである。趣味で山案内のサイトを造っている人など数え切れない。ガイドブックが贅肉をそぎ落として実用一点張りになった結果、それらのサイトともはや内容に変わるところはない。しかもインターネットは無料である。情報が新しいとして買われていた山岳雑誌も青息吐息であろう。

本という形態はおそらく不滅である。利点を数え上げればキリがない。ことガイドブックに限っても、たとえば山域全体を把握するのにこれほど適したものはない。それでも人は情けないくらい無料に弱い。本当にいいものがタダであるはずはないのに、タダの力がついに低俗をも許容させるのは、テレビ番組を2時間見ればわかる。

本には何かしらの言霊が宿ると私は思っている。そして言霊は、ガイドブックが贅肉だとして捨ててきたその著者ならではの文章にこそ宿っている。そこに魅力があってこそ金を出してもらえるガイドブックとなると思う。文章の復権である。だが登山が、ガイドブックに余計な個性など不要、言霊などアナクロニズムだと笑う連中の遊びになってしまえば、ガイドブックどころか、山岳書全体の行く末は暗い。残念ながら私の予感はそちらの側にある。

登山もまた合理化への道が避けられないといっても物事には程がある。ガイドブックの代わりに、携帯電話とインターネットとGPSに誘導されて歩く山など、もはや程を越えていると私は思っている。 

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