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  『文豪が愛した百名山』 中川博樹・泉久恵 著

草創期の山岳会には、現代の目から見ると少々畑違いの感じがする人が多く在籍していた。それは、登山趣味の人のみならず、自然科学から芸術にいたるまで、色々な分野の専門家が山を舞台にして未知を探ろうとしていたからだろう。こと山岳会に限っていえば古き良き時代だったと想像する。

現代の目とは登山をスポーツとしてとらえる目で、近代登山は、その後もっぱらスポーツとして発展してきたのである。

そんな中、山に旺盛に登り、しかも登山をスポーツ、つまり肉体の成果だけとは決して考えない作家が、いわば擬人化した山を主人公にすえて描いた文学作品が、深田久弥の『日本百名山』だったと筆者は考えている。

近年、山はいよいよスポーツの場でしかなくなり、深田の書いた内容はなおざりに、選ばれた山名ばかりがまるで国のお墨付きのようにもてはやされ、行脚されるようになったのは誰しもが知るとおりで、その山に登る方法にのみ終始した本も数多く出版された。

しかしさすがにそのブームも一段落した。今回紹介する本の著者は、従来のガイドブック的な要素を最小限とし、本来語られるべき深田百名山の内容について新しい視点から再考することにした。すなわち、古今三七人の文学者の作品に現れた百名山を吟味したのである。

およそ文学とは文章を駆使して人を描くことで、山もその材料のひとつにすぎない。スポーツ的登山から量産された紀行文には、初登頂などの華々しい事実の助けがあればまだしも、誰が作者であってもいっこうにかまわないような文章が多い。これは、事実に拘泥することが、かえって人を描く妨げになることを示している。

必ずしも山に登るわけではない文学者たちの作品に百名山はどう使われ、どんな効果を発揮したのだろう。本書には登山者による山の文学を考えるヒントがある。

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