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          ふたたび赤岳(9月17日)

星のまたたく快晴の朝まだき。行き先も定まらぬままとにかくいつものように甲府盆地へ向かって峠を下りていった。九月半ばなれば、まだまだ気持ちは二千五百メートルを越えた山に向かう。

初めは甲武信ヶ岳へ登ろうかと漠然と考えていた。いつものように双葉サービスエリアで朝食を摂ってから、さらに中央高速を北西に進む。韮崎インターチェンジを過ぎると八ヶ岳が目の前にせりあがってくる。それを見たら八ヶ岳に登りたくなってきた。甲武信なら紅葉や新緑の時季のほうがよさそうだ。というわけで、小淵沢インターチェンジまで飛ばす。

美濃戸口から、例の一般車通行止の林道に入っていった。以前はこんな道は車を入れるべきでない、と歩いていたことを思うと変節もはなはだしい。何となく卑屈になって、歩いている登山者に出会わないように祈りながら猫背で運転する。

道が柳川を渡って右岸の高みを行くようになると、左から、ずっと右岸に沿ってきた道が合流する。この道は、来るたびに広く整備されてきているようだ。いずれ、こちらがメインルートとなるのだろうか。

運転しながら、赤岳はすでに渓と登っているから、今度は阿弥陀岳に登ろうと決め、車を美濃戸山荘の駐車場にすべりこませた。

しかし、渓にとっても、はや二度目となる勝手知ったる径を行者小屋へ着き、正面にくっきりとそびえ立つ赤岳を見たら、気持ちが赤岳に傾いてしまった。前回は霧で何も見えなかったわけだし、あの大展望が保証されている以上はその誘惑には勝てない。

南北アルプスなどに比べると、火山である八ヶ岳の山の浅さが物足りない気もするが、逆に、その浅さが広闊な展望をもたらしているとも言える。わけても赤岳は甲信境にすっくとそびえ立つ最高峰なのだから、その展望は深田久弥さんの言うように「本州中部で、この頂上から見落とされる山はほとんどない」となるのである。

阿弥陀岳の展望も素晴らしいが、一方を赤岳にさえぎられてしまうし、頂上が小広いこともあって、天空に放り出されたような爽快感はない。しかし最初は登るつもりだった阿弥陀岳には気の毒なことをしてしまった。南無阿弥陀仏。

行者小屋の前では、たむろする多くの登山者にいつものように渓は激励を受ける。担いでいる親父はたいてい無視される。

前回は地蔵尾根を登ったので、今回は文三郎道を選ぶ。行者小屋までもそうだったが、数日前の台風で径が荒れている。かもしかが二頭、林の中を地響きをたてて走り抜けていった。

樹林が途切れると、鉄の金網でできた階段がえんえんと続く。最初に登った時はさしたる苦労もなくほいほいと登れたものだが、今やただ忍の一字、足元を見つめて一歩一歩高みを目指すのみである。それでもたまに後ろを振り返ると行者小屋がはるか低くなっていて、人の足というのはたいしたものだと思う。誰と争うこともなく、自分の肉体の成果が如実に確認できるのが登山の喜びのひとつだろう。

中岳分岐でひと息つく。ここからの阿弥陀岳は甲斐駒に似ている。南稜の最初の一峰があたかも摩利支天のようだからだろう。その中腹にきれいな金字を重ねる中岳の姿もなかなか良い。

縦走路を合わせ、今まで隠されていた東側の景色が一気に拡がる。わずかで頂上の一等三角点に迎えられた。何人かが頂上の至福を楽しんでいた。僕たちもそれに参加する。

富士山が実に気高い。秀麗そのものである。この距離になると山肌の細かいところは見えなくなって、ただその形のみとなる。まだ雪を被らぬこの時季、富士は青い影絵だ。いつも近くから富士山に接している僕には、遠くから眺めるこんな富士山がかえって好ましい。

いつぞや富士山の写真家の大山行男さんに、八ヶ岳からの富士山の写真のないことを不審に思って尋ねたら、遠すぎるという答えだった。大山さんにとっては、富士山は眼前を圧する存在でなければならないのだろう。

県界尾根と真教寺尾根がきれいに並んで下界に伸びている。その間を大堰堤を連ねた大門沢が流れ、痛々しく木々の剥がされた人口スキー場に突きあたる。飯盛山あたりから見上げる八ヶ岳の姿を台無しにしてしまったこのスキー場は、もともと山梨県主導の開発だったというではないか。その横には緑のいびつなクレーターがいくつもある。県営のゴルフ場である。全国に先駆けた高山植物保護条例も空しいといわざるを得ない。一人殺せば犯罪者、千人殺せば英雄。チャップリンの名台詞そのものである。

尾崎喜八さんの描いた八ヶ岳山麓を想う。観光地として脚光を浴びる前の山麓。それは僕の知らない、本で読むだけの何もなかった裾野である。きっと赤岳の頂上から見下ろす裾野にはただただ原野が拡がっていたのだろう。

この地に開拓として入った人はいざ知らず、純粋にただこの風光のみを気にいって、最初に別荘を建てた人は、あとからあとからやって来る人々に、来るな来るなと、お釈迦様の垂らしたクモの糸の先頭を登るカンダタのように思っただろう。そんなわけにはいかぬ。いい所は誰にとってもいい所である。ひとりじめにはできない。別荘が建てられるような場所には、都会にない景色にひかれてやってくる人たちを相手に観光業が成り立ってくる。清里駅前には高原=メルヘンという短絡的なイメージそのままの街並みが出現する。そして林立するレストランやペンション。夏はいいだろう。さて、冬だ。冬にでもこの地を訪れてくれるような人の量ではもはや皆が食ってはいけない。よし、スキー場を作ろう。場所は?。目の前に格好の八ヶ岳のスロープがあるではないか。かくして、かつてこの場所を訪れた人たちが魅せられた風景は傷つけられ、失われていく。いったい誰が悪いのか。全ては人間のやったこと。人間であるかぎりは皆悪い。かく言う僕も悪いのである。

日本有数の山岳景観に恵まれた八ヶ岳南麓地方は、それらを眺めることのできる中低山も豊富で、つまりは僕の好みの土地である。当然訪れることも多い。それどころか、この辺に住んで、今までの経験を生かした登山者ハイカー向けの民宿でもできないだろうかと夢想することもある。だが、それはとりもなおさず、この地に新たに人間の染みをつけることに他ならない。僕も蚕の一匹となって山麓を食っていくことになる。もしそうなったら、人間の来た道はもう帰れない道なのだからと言い訳するのだろうか。まったく、物言えば唇が寒い。

富士や南アルプスが霧に姿を消してしまったので、北峰に移動して昼食とした。やっとたどり着いた山のてっぺんで飯を食うのは、日帰り登山の至福の一瞬である。ゆえに、正午位にその日の山の頂上にいるような計画が望ましい。

今日は十一時四十五分登頂で、どんぴしゃだった。北から西にかけては雲が多く遠望はきかない。また南アルプス方面が姿を現してきたので、南峰に戻って山を眺めた。北岳と間の岳がほとんど重なって見えるのもおもしろい。千曲川の流れが東に延びて、その上に両神山が盛り上がっている。その向こう、遥か遠く雲の上に山の姿を認めた。双眼鏡で見ると、相当高い独立峰のようだ。何だろう。近くで山の説明をしていたガイドのような人に聞いてみたがわからない。これは家に帰ってから地図に線を引いてみたら、なんと筑波山だった。平野の真ん中の山だからひときわ目立つのだろう。

久しぶりに中岳を越えて行者小屋へ下ろうと、頂上をあとにした。

文三郎道を分けていったん鞍部へ下り、中岳への登りにかかる。下りに慣れた足には結構つらい登りである。

中岳道を下ろうと思ったのは、地蔵尾根や文三郎道に比べて、急峻でなく下りやすいというのもさることながら、中岳の頂上で、赤岳をバックに親子三人で記念写真を撮ろうという目論見があったからである。結婚以来、山での写真を年賀状にしてきた。今年もそんな時期になってきたので重たい三脚を担いできていたのである。

ところが、中岳の頂上に立つころには、赤岳は霧に隠れてしまった。それではというので、阿弥陀岳に向けて三脚を立てる。だが、渓はあさっての方を向いてばかりで、結局ろくな写真は撮れなかった。

阿弥陀岳の分岐で、たくさんのご婦人の登山者にまた激励を受けたのち、行者小屋へ下り出す。台風の大雨のせいだろう、阿弥陀岳の登山道から山抜けが起こっていて、危ういトラバースを強いられた。

美濃戸までの長い道、渓はほとんど夢の中。駐車場で降ろすと、鼻が赤くすりむけていた。ベビーキャリアのどこかでずっとこすれていたのだろう。赤ん坊の眠る力にはいつも感心させられる。

赤岳に登った赤ん坊の鼻も赤くなって、いい落ちがついた。何より無事で、まずはめでたいと、その夜、赤い灯りに引き寄せられた親父の顔まで赤くなったのは毎度のことで、さらに落ちをつけようとしたわけではありません。

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