羅漢寺山塊北部縦走(甲府北部

ロッジ山旅はおよそ1100mの高さにあって、付近がいっせいに芽吹きとなるのは例年ならGWが終わった頃からである。それが今年はすっかり緑が多くなって、10日くらいは早い新緑の季節である。

中村好至恵さんが車を出してくれるというので、車が2台あるのが好都合な標高1000m内外の山を甲府盆地近辺で物色し、羅漢寺山塊の縦走を思いついた。この山塊にはやたらと行くが、羅漢寺山以北は久しく歩いていない。そこで北端の峠から南へ獅子平まで縦走することにした。バス便があった時代にはできた縦走が、今では車2台を使うしかないのである。

「羅漢寺山塊」とは、ガイドブックに案内を書くにあたって、山域にこれといった名前がないのを不便に思って私が命名したものである。ま、誰が名付けようがそれ以外には考えられないのではあるが。北は、草鹿沢と御岳を結ぶ峠から、南は荒川が亀沢川を分ける地点までが妥当な範囲であろう。

その北端の峠にれっきとした名前がないのは不思議なことで、名前を付けるなら「御岳峠」とでもなろうか。切通しになっている峠は、かつては隧道で抜けていたという。

金桜神社を眼下にする「ガキ山」(石垣や石祠が残っている)に寄り道しながら勝手知ったる径を登って行ったら、驚いたことに突然前が開けて、大伐採地に出た。10年前、雰囲気がいいからというので、その中で新年会をやった広大な林がまったくなくなっていた。昨日はあいにく雲の中だったが、好天であれば南アルプスや金峰山の眺めがすごいだろう。伐採されたばかりの今は殺伐とした感じがあるが、次の植林が育つまでは展望が楽しめるとあっては、どんな風景が見られるか、好天の日にでもまた出かけたい。

連休の前日だというのに観光地のパノラマ台に人はまばらで、なおさら、白砂山や白山に人影はまったく見られなかった。極上の新緑と、同時に咲いているミツバツツジとヤマツツジ、さらには新たに発見したシロイワカガミの群落を楽しみつつ、羅漢寺山塊北半分の縦走を終えた。ついでと言っては何だが、帰りがけに参拝した金桜神社では、見れば金運をもたらすという鬱金桜が満開だった。めでたし、めでたし。

八幡山・米寿記念登山(塩山)

4月の浅間山でのこと、この日は今年米寿になるというおふたりがたまたま参加されていた。すなわち、お馴染みおとみ山と神戸のN女史である。

「米寿記念登山をしなければなりませんね」とは、その日同行の誰からともなく出た案だった。おふたりが実際に米寿になるのを待っていたら秋になってしまう。しかし、末永くお元気でという意味からは、やはり木々から生気をもらえる新緑の季節に越したことはない。だいたい、数ヶ月の誤差など米寿の年齢にとっていかほどのものでもない。

そこで、その場で皆さんの都合を聞いて、はやくもひと月後の5月第2週の木曜日と日まで決めてしまったのでる。主催者たる私は頭の中でさっそく計画を練った。

近頃は傘山が傘寿記念登山の山としてクローズアップされているが、さて米寿の山となると、さすがにその歳まで山歩きをしている人は激減するらしく、これといったそれ用の山はないのである。「米」が名前に入る山は、近場では甲府盆地南部の米倉山しかなく、これは頂上一帯がソーラー発電所になっており、登って楽しいような山ではない。「米」つながりで「飯」、それなら飯盛山があるけれども、人のいない山に登るのをモットーにする木曜山行としては面白くない。

その頃なら新緑がきれいなのは1000~1500mくらいの山だろう。行程がさほど長くなく、危険な箇所がなく、しかも人の訪れがめったにない山がないものかと地図を眺めていて八幡山の標高が目に付いた。「1088m」。名前に「八」があるうえに標高に「88」とはいいじゃないの。よしこの山に決定、桜峠の南側の径はヤブがはびこって冬以外は少々手ごわい、林道が通じ、距離も短くて済む北側から登ることにする。

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ずっと雨マークが消えない天気予報にはヤキモキした。夜の部は毎度の貸切レストランを予約してあるから、お祝いそのものに中止はないものの、やはり山に登ってこそのお祝いである。

至誠天に通ず。皆さんの念力によって雨の降り出しが遅くなった。出かけるときには晴天といってもいいほどの青空の広さだった。

八幡山は下界から眺めてもわかるとおりのテーブルマウンテンである。桜峠からテーブルに乗るまでの急登はあるものの、地面がふかふかなので、ことに下りの危険が少ないのが何よりである。

順調に登って頂稜に出れば、あとは緩く登っていくのみである。今年の新緑は早かったが、それでもまだ初々しい緑の中に山ツツジの橙色が映えていた。

そして無事登頂、有史以来、この山に米寿祝いで登った人はまたとあるまい。実にあっぱれである。

早めに下山して、さてお待ちかねの夜の部は、山に行った7人に3人が加わって、総勢10人が貸切レストランで気炎をあげた。「次は卆寿の山だね」、あと2年ともなれば現実味がある。

でも、こちらが持つかしら。ともあれ、おめでとうございます。
すがぬまみつこさんのふるさとの山・神野山その1(見出)

この山行計画のきっかけが、すがぬまさんが日本山岳会のスケッチクラブの会報に書いた文章を読んだことだったのは先般書いた。もう一度リンクを張っておこう。

心配された天気も直前になって好転し、初日はまずまずの天気となった。山梨から出発した4人は飯田で名古屋組3人と合流、一路目的地に向かって祭り街道(道沿いの町村に各々伝統的な祭りがあるところからそう呼ばれるようになったと。すがぬまさんの初任地のそれがことに有名な「花まつり」である)を南下した。私にとってもまったく初めての道で、まわりの風景は新鮮だった。それにしても、飯田から相当な距離を走ったというのにまだ長野県なのには驚かされる。標高1000mを越える峠を越えて、やっと愛知県に入った。同県内の名古屋で育った私だが、このあたりのことなどまったく知らない。

最初の考えでは時間が許せば初日に登山してしまうつもりだったが、翌日にすることにした。というのも、すがぬまさんの初任地、東栄町御園地区にある、すがぬまさんが間借りしていたという旧旅館が今では「茶禅一」という食事処をしていて(教え子のOさんー上記のすがぬまさんの文章に出てくる「克時さん」ーが経営している)、18日は休業日だという。目的からしてそれではまずいので、初日はランチを兼ねてそこで過ごすことにしたのだった。

豊根村の中心部から、いったいどこまで登るのだろうという道で御園トンネルを抜けると、ぱっと前が明るくなって、南に向かって徐々に高度を下げる御園集落に出る。長野県大鹿村など、似た山上集落ではあっても、大山岳を背後にした厳しさや地形の急峻さはなく、いかにも穏やかな山里の風情である。「茶禅一」はこの集落の中腹にあった。その名前どおり、お茶の製造販売もしており、工場は店の隣にある。昼夜の温度差があって、しかも霜が降りないので茶の栽培には適した土地だということだ。たしかに付近の耕地はほぼ茶畑ばかりである。

その「茶禅一」での、また、町の中心部にある温泉施設に併設された、かつての高校寄宿舎を改装したという宿でのOさんの歓待ぶりにはまったく恐縮するばかりだった。田舎町ゆえ不便だろうと、わざわざ御園から400m近くの標高差を下ってきて数々のごちそうを調達して宿まで運んでくださったのである。このご厚意は我々の心にずっと残ることであろう。

すがぬまみつこさんのふるさとの山・神野山その2(見出)

翌朝は願ってもない快晴に明けた。ふたたび御園に上り、茶禅一の駐車場に車を置いて歩きだした。神野山の登山口までは車でもっと近づけるが、それではつまらないと、御園の集落内を歩いていくことにしたのである。

茶禅一から急な歩道を登ると、一段上に山中にしてはわりと広い校庭のある旧御園小学校に出る。ようするにすがぬまさんが宿舎から学校へと通勤した道を歩いたことになる。小学校は30年前に閉校したが校舎は残っている。もっとも、すがぬまさんの勤めていたときには木造平屋の校舎だったそうだ。

今では人っ子一人いないこの校庭で、かつては子供たちが遊んでいたことを想像すると、大げさには日本の来し方行く末にまで考えが及ぶ。日本中にこんな光景がいったいくつあることだろうか。

正直なところ、神野山に実際に登ってみて、自然物としての山の印象は薄くしか残らないだろう。しかし、この山旅を思いつき、実際に登る途次で我々が経験した情や、聞かされた逸話の数々はおそらく神野山を忘れがたい山にすると思う。

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