碓氷峠廃線路歩き(軽井沢

4月の初め、骨折後のリハビリ歩きには最適かと篠ノ井線の廃線路歩きをした(参照)。それがなかなか良くて、次は、鉄道廃線路歩きのマニアならずとも知っている、碓氷峠の旧信越線の廃線路をいつかは歩いてみたいと思った。

今週はあいにく木曜日だけが天気が悪い。さらにあいにくなことに、関西や名古屋から4人が山行に参加することになっていた。大雨でまるでダメというわけでもなさそうだが、しかし日帰りの山で雨はごめんこうむりたい。そこで廃線路歩きならと思いついた。整備された道なら少々の雨でも問題ないし、篠ノ井線のときの参加者が3人いるのも好都合である。

木曜山行では浅間山から西へは行ったことがあるが東は初めてであった。バイパスができてからは国道18号の旧道を通る車は少ないのだろう、軽井沢駅を過ぎるとほとんど行き交う車はなくなった。軽井沢側からはゆるくわずかに登ると碓氷峠で、峠を越えると、こんなに下るのかと驚くぐらい一気に下る。要するに、横川から登ってきたら、軽井沢一帯はとてつもなく広い山上台地になっていることになる。

さて、横川駅から歩き出した廃線路は「アプトの道」と名付けられ、紅葉には早い平日の昨日はほとんど人もいなかったが、山が紅葉し、道脇に延々と植えられたカエデが色づくころには相当な人出があるのではないだろうか。

バラストがそのままで歩きづらかった篠ノ井線と異なり、バラストはアスファルトで固めれていたし、トンネル内は舗装され、その他の部分も細かい砕石が敷き詰められていた。つまり土を踏む場面はほとんどなく、雨でも足元に気を遣わずに歩ける。篠ノ井線の廃線路とは金のかかり方がまるで違う。

午後から晴れるとの予報も、休憩所で昼休みをする頃には雨が降ってきて、午後の部は傘をさしての出発となった。しかし途中のあずまやで休憩しているうちにはやんで、空は明るくなった。

この廃線路歩きは後半(昭和38年以前の鉄路を歩く部分)が圧巻である。数々の総レンガ造りのトンネルや橋が現れ、まったく明治時代の労働力というのはすごかったのだなと感嘆させられた。紅葉の盛りに歩いたらさぞ山の色が見事だろうが、「廃れ物」を見るには人影が少ないに限る。

虫倉山(柳沢峠)

今週はどこへ行こうかと考えて、勝手知ったる虫倉山も秋だけは行ったことがないのに気づいた。標高からしてちょうど今時分が秋の盛りであろう。最初のころは星糞峠から往復するばかりだった虫倉山も、ためしに東の山麓から登ってみて、静けさは当たり前として、その変化に富んだ樹林の素晴らしさに、以来、登るのは東麓からだけである。

体調およびコロナのせいでTさんがほぼ1年ぶりの参加となったので、好天になればいいなあと願っていたが、大門峠あたりは霧に煙っていた。鷹山まで下るといくぶん霧は晴れたものの、あたりの景色が見渡せるほどでもない。

ま、降らなきゃよしと出発し、幸い降られることもなかった。そして霧の山もそれはそれで風情があったのである。

星糞峠では、あらたに黒耀石がらみの展示場を造る工事中であった。それが完成したあかつきには、この界隈の様相も変わってしまうことだろう。

今回は、最後に黒耀石体験ミュージアムを見学した。さんざん横を通りながら初めて立寄ってみたのであった。さても門外漢には考古学はむずかしい。いろいろな展示を見るにつけ、本当かしらとひねくれ者の疑問がふつふつと湧いてくるのであった。

ズミの花が咲くころ、また訪れてみたい。
片蓋山~野尻草原(松原湖)

数年前から、大室山界隈の富士山の側火山をひとつひとつ登って、去年のちょうど同じころには弓射塚に登り、これにて目ぼしいピークには全部登ったことになった。だが、片蓋山だけは地元のご常連とは登っていなかったので(参照)、ちょうど野尻草原のススキがきれいなころでもあったので計画してみた。

昨今にしては多くの参加者があったのはうれしかったが、富士五胡地方の山は富士が見えてナンボのところがあるし、わざわざ遠路から参加の方々もあったのでなおさら天候が気になっていた。

幸いなことに秋晴れで、しかも暖かい1日となった。登山口に向かう前、精進湖畔で朝の子抱き富士を見た。

去年と比べると富士山の雪は少なく、そのわりには紅葉は早い感じがした。今年は富士山には登れないから、こんな年こそ富士山の裾野や付近の魅力を発掘してみようという向きがある。しかし、そんなことは前々からわかりきっていることで、五合目以上の殺風景な富士山だけを見ているだけでは片手落ちというものである。

古い歴史を持つ富士山の広大な裾野はことごとく人の手の入ったところである。片蓋山しかり、野尻草原しかり。富士山はそれらを全部見てきたことになるとは富士を擬人化しての言いである。山を擬人化するのは山をご神体とする日本ではよくあることで、富士山ならなおさらのこと。雲の切れ間から富士山の頂上がぬうっと頭を出すと、ちっぽけなこちらの考えなどすべて見透かされているようで、太宰治ではないが、かなわないなあと思う。

丸山(霧ヶ峰)

下諏訪の丸山に初めて登ったのは一昨年の4月で、東麓の神社記号を経由して登った。山の中に神社記号を見つけると気になるタチなのである。昔の地形図には神社記号はやたらと多く、いかな小さな氏神もいちいち記載していたのだろうと思う。現代の地形図からはかなり消えてしまっているのは残念なことである。

この神社記号は行ってみると御射山神社という名で、今でこそ社殿は小さなものだが、かつてはもっと大きな社殿があったのではないかと想像される境内の規模だった(参照)

この年は、その前の週に諏訪大社秋宮から大見山に登って(参照)、諏訪湖北岸の山にがぜん興味がわき、それが翌週の丸山に続いたのだった。秋宮から歩き出して、里から山へとだんだん入っていくのが新鮮だった。現代のマイカー登山は「いきなり山道」なので味気ない。木曜山行もその例にもれず、つまり現代の山歩きは里と断絶しているのである。

それで昨日の丸山の計画ということになる。地形図を眺めると南西麓に諏訪大社の春宮がある。これを起点に登ってみようじゃないかと考えた。里から山に入るといっても、やはり舗装路歩きが長すぎるのは閉口だ。しかしこの場合それもわずかで、しかも歩くのが中山道となれば味わいも深まろうというものである。

快晴の朝、参加者がおとみ山だけとなると、やはり展望のいい山へ、と少し心も動くが、藪山だって天気がいいほうが気分がいいに決まっていると初志貫徹とした。

まず春宮に参拝ののち、万治の石仏にも寄り道した。中山道をわずかに歩いて、目星をつけておいた神社記号から尾根に取り付いた。まあ、これは地形図を眺めたらだれもが思いつくルートである。そして何とかなるだろうと思っていたこのルートはそれどころではなく、何らの問題もなく登っていけたのであった。

というのも、この尾根一帯が白鷺山という神領で、上部には立派な社が2棟建ち、そこまでの間には立派な道が整備され、途中には30体にも及ぶ石碑や石仏が並んでいたのだった。ぶっつけ本番というのはこういう新鮮な出会いがあるのが面白い。

さらにその上には山吹城址という城跡まで現れたのには驚いた。山中、人工と思われる地形や古い径らしいものがそこかしこにあって興味は尽きない。寄り道をしながら2時間あまりで頂上に達した。頂上からは枝越しではあるが、鷲ヶ峰から三峰山を経て二ツ山あたりまでが眺められた。

下りも、誰もが、こう下ればうまく周回できるだろうという方法をとったのだが、これは短いとはいえ篠竹と笹薮にわずらわされ、しかも尾根の分岐がはっきりしないので少々手ごわかった。多少右往左往しながらもなんとか思ったとおりに下って春宮に戻り、鳥居に一礼して大団円とあいなった。

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