白谷ノ丸〜黒岳(七保・大菩薩峠

私の母校は都留市の高台にあって、校舎の上階からは富士山こそ見えないものの、いかつい姿でひときわ目立つ三ツ峠山や、本社ヶ丸から鶴ヶ鳥屋山にかけての稜線と、その上には大菩薩連嶺を望むことができた。

もっとも、山の名前になどまったく興味のなかった大学生時代だったから、クラブ活動でよく登った三ツ峠山以外に山名を知っていた山は、下宿の窓から唯一、家並みの切れ間にきれいな三角形を見せていた鶴ヶ鳥屋山だけで、あれは何という山だろうと地図で調べたのだったが、ずっとあとまで「つるがとりやさん」と読むのだと思っていた。

大菩薩連嶺では黒岳が文字通り黒いので、その手前の夏なお白い白谷ノ丸は嫌でも目立ち、あそこはどうなっているのだろうと印象には残っていた。しかしそれも名前を知ったのは卒業して街を去ったあと、せっせと山梨県内の山歩きを始めてからのことだった。

その白谷ノ丸とはとんとご無沙汰で、もう10年以上も登っていない。というのも、縦走するには車の手配が大変だし、湯ノ沢峠からの、えぐられ固く踏まれた登山道をただ往復するだけでは芸がなさすぎて面白くないからであった。

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2,016年夏号の『山の本』に多羽田啓子さんが大峠側からの白谷ノ丸と黒岳の紀行を書いていたのを読んで膝を打った。なるほどこの手があったか、ありがたくこれをいただきましょうと、その行程をきっちりとなぞったのが昨日の木曜山行であった。

木曜だけが曇天の予報で、それでも昨今の天気からすれば雨にならないだけましなほうである。久しぶりの大峠への車道だったが、一度でも通った道はある程度記憶があるのに、まったく途中の風景に覚えがないのはどういうわけか。

ともあれ順調に大峠へ着き、自転車をデポして取り付き点に戻る。かつての植林作業道だろうか、今では鹿のほうが多く歩いているだろうが、それでもそこそこの踏跡がある。スズタケがすっかり枯れているので登れるが、もし密生していたら突破は困難だろう。県内いたるところでスズタケが枯れているので、今がその手の山を自由に歩ける好機かもしれない。

茶臼というピークはその西側の地形から名前がついているのだろう(岩科小一郎の本で調べたら、茶臼石という岩があることに由来するそうだ)。植林地はこの手前で終わり、ここから白谷ノ丸までは実に雰囲気のいい草原と林だった。

展望こそないものの、草原に霧が流れて幻想的である。ここから白谷ノ丸を経て黒岳までの雰囲気の良さといったらなかった。そして黒岳から大峠への深山らしい苔むした径。このルートはすっかり気に入った。紅葉には少し早かったが、この秋のうちにもう一度行ってもいいくらいだし(実際に行くことになった)、初夏のころも良さそうだ。

展望があれば昼休みは白谷ノ丸に決まっているが、そうでなければ黒岳南の広葉樹の林で休むに限る。縦走路を少しはずれた高みに陣取って昼休みとした。天下の大菩薩の縦走路だというのに、結局最後まで他の登山者と行きかうこともなく山歩きを終えた。

茶臼、白谷ノ丸、黒岳、赤岩ノ丸、と四色の色が行程にあるのも面白い。大峠は実は青峠が音便変化でそうなったものなのだとしておけば、もう一色加わりますね。


大明神岳(茅ヶ岳)(茅ヶ岳)

80年代後半、私が初めて茅ヶ岳に登ったときには、今でいう女岩のコルに清川を指す道標があったとは以前に書いたことがある。ちなみに、そのころの地形図では、女岩からはすぐ右手の尾根へと破線がつけられていた。むろんこれは間違いで、当時も今も道筋は変わらない。さほど地図読みに長けていなくともわかることだがいつまでもそのままになっていた。現在の地形図では修正されている。

さて、その間違ってつけられていた破線が通っていた尾根の行きつく先が、昨日の木曜山行での目的とした大明神岳であった。

「大明神岳」ならぬ「大明神山」は甲斐国志に記載され、「芦沢村の西南茅ヶ岳の山腰ナリ・・・山中ニ祠アリ故ニ名トス」とあるのだが、「山腰」というのがどのあたりを言うのかはよくわからない。

この記述からすると、現在の下芦沢の西に懸崖をかけている山がそれらしく思え、そこにある三角点名も「大明神」である。そこで、私としてはこれを「大明神山」とし、昨日の目的地、女岩南の突起を「大明神岳」と区別している。後者を「大明神岳」としたのは、そう記述された文章か地図をどこかで見たからで、しかしそれが何だったかは忘れてしまった。

韮崎から眺めるとこの突起は山といえるほどのものではないが、芦沢方向からは確かに茅ヶ岳手前の一峰といえるほどの形をしており、山頂には祠もあるのだから、誰かが甲斐国志の大明神山をこれとし、茅ヶ岳や金ヶ岳、曲岳など、あたりに「岳」が多いことにちなんで「大明神岳」としてしまったのだろうと思う。

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秋晴れになった。深田公園にはすでに10台くらいの車がとまっていた。茅ヶ岳にここから登るのは10数年ぶりである。

最初に登ったころは女岩から上はもっと柔らかい地面だったように思うのだが、記憶は美化されるからどうだろうか。しかし、腐葉土ができる前に落葉が蹴散らされてしまうほどの人通りがあることは間違いなかろう。

最初は茅ヶ岳はパスするつもりだったのを、時間はあるし天気はいいしで、女岩のコルに荷物を置いて往復することにした。3人がいるだけの、思ったよりは静かな頂上で、少々物議をかもした、誰かが勝手に頂上一帯を伐採してくれた事件のおかげで眺めが良くなっていた。気温の高いわりにはすっきりした空で、四囲の景色を存分に楽しむことができた。

女岩のコルから大明神岳へはほんのわずかである。あまり往復する人もいないらしく、枝を払って歩く。

祠のある山頂は、山頂というほど突出した感じはしない場所である。今日の目的地なのだから昼休みとした。

大明神岳から清川へはかつてはわりと歩かれていたのだと思う。途中でそれと思える尾根の分岐を見送ってからは踏跡はほぼ消滅し、方向を定めて歩きやすいところを下った。途中、林道に尾根が切られる部分が2か所あって、そこだけ注意がいる。踏跡はなくとも地面が柔らかいので下りは楽である。割と早い時間に駐車場に戻った。

後記

記憶なんてあてにならないもので、2003年の暮れに茅ヶ岳に登ったときの写真を見たら、女岩のコルには「敷島」方面を示す、韮崎市の立派な道標が立っていた。敷島すなわち清川に下るということだろうから、そのころまでは清川へ下る人もいたということだろうか。

昨日の写真を見ると、道標そのものは変わらず、「敷島」の部分だけが切られているらしい。公の道標なので、道迷いの危険のある方向を切ったということだろう。それはいつ頃のことだったのだろうかと、今度は2009年の写真を見ると、まだ敷島方面を指す部分は残っていて、しかしそこには赤テープが貼られ、拡大してみるとマジックインキで通行不能と書かれている。

なるほど、同じ場所で写真を撮っていると、面白い変遷がわかるものである。(参照)

大沼沢の頭(柳沢峠)

介山荘に一泊しての牛ノ寝通りは人数が集まらずに中止にしたが、そうなると予定していた2日間が好天だったというのだから皮肉なものである。まあしかし日帰り行程にしても好天だったのだから文句はない。代替案はやはり大菩薩にしようと、柳沢峠東の山域を探ってみることにした。

丸川峠の北には寺尾峠、天庭峠、ぶどう沢峠と、重川筋から泉水谷へ越える峠があって、昭和30年代くらいまでのガイドブックにはそれらの峠越えルートが記載されていたりもするのだが、今では水源歩道に位置を示す道標はあるものの歩く人はほとんどあるまい。当然地形図に峠道の破線もない。

かわって現在の地形図に破線の記載があるのが、ぶどう沢の、尾根を隔てた北側にある沢沿いで、それではこれをたどって水源林道に至り、水源林道がことごとく巻いてしまう突起に登ってみようというのが昨日の計画だったわけである。

せっかくの好天に展望のない沢歩きで始まるのはもったいなかったが、晴天でもなければ気が滅入るような藪沢であった。地形図の破線を信じるととんでもない目に遭うだろう。スズタケが枯れているので何とかなったが、旺盛であれば突破するのは至難だったと思う。沢の名前がわからないので、途中に何基かある堰堤の表示を見たが、「柳沢峠南」とあるだけだった。

要するに地形図に破線はあるが人の径はない。ケモノが通った跡を嗅ぎ分けて突破するしかなかった。しかし苦労しただけに、ようやく傾斜が緩んで源頭部の穏やかな林に入ったときにはその良さが際立った。

足元は丈の低いミヤコザサになって、これならどこでも歩ける。普段は巻いてしまう1706m峰を今日の最高到達点とし、到着したのはちょうどお昼時であった。このあたり地名が本によって乱れているが、ここは東側大沼沢の源頭の最高点ということから、「大沼沢の頭」でいいと思う。そう書かれた本もある。

美しい樹林は今年の気候ゆえか色づきは良くないが、しかしそれもよし、こんな静かな山頂にいる幸せを思う。枝越しには端正な大菩薩嶺や、笠取山から雲取山にかけての多摩水源の山々を望むことができた。

柳沢峠までは、「三本木」をはじめ、水源林界の稜線を忠実に歩いた。明治の地図では「東嶺」とある。(ちなみに柳沢峠を隔てた三窪高原あたりが「西嶺」)。その北側に通じる整備された水源歩道も悪くはないが、この稜線はちょっとしたバリエーションルートとして推奨できる。柳沢峠から黒川鶏冠山を往復するときなど、帰りにこの稜線を歩けば、変化があって面白いと思う。

増富山地西部縦走(瑞牆山)

日本山岳会のKさんが会の若手3人を引き連れて権現岳の御神楽尾根を登って材木尾根を下った。Kさんともうひとりがそのままロッジ山旅に投宿、翌日にはもう一山歩いてから帰るという。

どこへ行くのと聞いたら、増富山地の和田峠から神戸まで歩くとか。9月に魔子から和田峠まで歩いたので、さらに朱線を延ばそうというのである。早めに帰京したいのでそのくらいの行程にするというが、それではいかにももったいない、針の山付近から登ってみればいいではないかと提案したのは、ちょうど一日前倒しで実施する予定の木曜山行がその日すなわち昨日で、どうせなら合同登山隊にしてしまえばいいと思ったからだった。

木曜山行は屋根岩の予定だったが、まあ絶対そこでなければという人がいるわけでもなし、常に行先は臨機応変である。増富山地西部縦走は木曜山行でも新緑の頃に行ったばかりだが、そのときは地形図にない林道に惑わされ、思ったとおりに歩けなかった部分が少々あった。それを確かめたい気持ちもある。

おじさん4人の群れに加わったのは日本山岳会のうら若き女性Iさんで、まだ20代というのだから、平均年齢68歳という会の中では若手も若手、彼女がひとり脱会するだけでも一気に平均年齢が70歳台に突入してしまうのではないかという貴重な存在である。

針の山への歩道の途中から、その西隣の尾根へ移る径があるとの予想ははずれ、結局、鹿道をたどって長いトラバースをする羽目になったが、花崗岩の大岩を縫って活路を見出すようなこのトラバースがもっとも藪山歩きの醍醐味だった。予定の尾根に乗ってからは、キノコ採りが多いからだろうか、この手の山にしては踏跡はしっかりしている。

最後のピークで昼飯を食べながら、こんな山で楽しいかいとIさんに尋ねたら面白いと言っていたので、涸沢に集まる、ファッションに重きを置く山ガールとは違うらしく頼もしい。

増富山地のように地形が複雑な山をある程度自由に歩けるようになるためには単独行をするのがもっとも良い勉強法で、女性にとってはちょっと大変かもしれないが、いずれ能力を上げて、体力の衰えた私を楽しい藪山に連れて行ってほしいものだ。

頼んまっせ。

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