霧ヶ峰の防火線歩き(オンバ沢山)(南大塩

この6月に前々から気になっていた霧ヶ峰の南側の稜線を独りでいくつか歩いてみた。その成果と言っては変だが、7月末の木曜山行前半最後ではさっそく皆さんとそのひとつを歩いてみることになった。

後半最初の木曜山行も、こちらもちょいと疲れていることもあって、歩きやすく、しかもまず人に出会うこともないこの防火線歩きとしたのだが、それをさらには山下りの方向にして、より労力を使わずに済むようにしたのだった。

すなわち蓼ノ海に車を置いて、午前中1本だけのバスに乗り、終点霧ヶ峰インターチェンジから下りだすという寸法である。

先般の台風で来館を一日伸ばしにした横山夫妻とお仲間たちが期せずして加わることになり、最近にしてはにぎやかな木曜山行となった。その台風が一気に夏を持ち去ったような初秋の空である。

防火線は、別に歩くために切ってあるわけではないので、ほとんどが歩きやすい稜線だとはいっても、何か所かは急峻になっているところがある。そのあたりをうまくいなして、蓼ノ海にたどり着いた。

このコースでメインになる山はオンバ沢山だが、昨日はオソバ沢山だと思い込んでいた。帰って調べたらオンバでありました。失礼。「ソ」と「ン」は間違いやすいので、ひょっとすると歴史上で何度も入れ替わっているかもしれない。

ごく軽い山歩きとしては、このオンバ沢山だけを歩いてみるのもいいかもしれない。それなら全行程で2時間とはかからないだろう。

増富山地を歩く(瑞牆山)

順延した甲斐のある晴天になった。夕方からの仕事が入って、予定していたにゅうは遠いので止め、権現岳の御神楽尾根を登って十二山尾根を下ってくるつもりでいたのだが、参加するIさんが夏にいろいろあってお疲れ気味だというので、ちょっとそれでは荷が重いかと増富山地を散策することにした。

5月に探った金山への旧道をたどり、針の山の尾根を下ってくるという算段だったが、他の季節なら人っ子ひとりいないだろうに地元のキノコ採りが数人いた。よそ者の入山はこの季節ご法度ではあるが、山歩きが目的なのだから許してもらう。

そんなキノコ採りの踏跡が山中縦横無尽にあるので気の抜けないところがあるが、そんな迷路を嗅ぎ分けて正解を求めるのも楽しみのうちなのである。

好天でも展望が得られる場所がほとんどないのは残念ではあるが、一カ所だけ露岩に上がると南アルプス方面が望める。上の中央写真がそれで、右端、まるで羅漢寺山のように見えるのが針の山である。

出会った地元の人に聞くと、主眼のマツタケは10月に入ればもう遅いという。ならば紅葉の盛りにはむしろ迷惑にならずに入山できることになる。錦秋の尾根道はさぞかし美しいことだろうと思われる。

飯森山(瑞牆山)

明け方まで降っていた雨も予報どおりやんだ。あまりに好天なら展望がない飯森山ではちょっと残念な気もするが、このくらいの曇天ならちょうどよい。

秋の盛りなら平日でも登山者の多い瑞牆山荘あたりも閑散としていた。固く踏まれた登山道は閉口なので、我々はみずがきの森からの径を選ぶ。その入口にあったはずの道標は朽ちたのか見当たらない。

少々時間がかかろうとも、富士見平へはこの径に限る。地面はあくまで柔らかく、周囲の樹林もすばらしい。

金峰山への登山道から飯森山への斜面に入ると、深くしっとりとした森をただひたすら登るばかりである。地形図に名前があるからたまには訪れる人もあるだろうが、人の踏跡らしきものはまったく見当たらない。金峰山に1万人登るとすればそのうちのひとりくらいは訪れるだろうか。それにしてもこの山だけを目的にやってくる者など皆無であろう。まあ、その気になれば、こんな山は歩きやすいところを登っていけば自動的に頂上へ着くので簡単である。

頂上はダケカンバが何本かある、それまでに較べると明るい小平地である。昼のひとときを過ごしたのち、横八丁の径へ向かって適当に下ったが、その間の林床の苔がすばらしかった。

富士見平からは金山峠へ下ってみる。地形図を見ると、金山から富士見平へは、歩くしかなかった時代には、現在の瑞牆山荘経由の車道より合理的な道筋があったはずで、その痕跡でもあるかと思ったからだったが、それらしい踏跡は見当たらなかった。我々は金山峠へ下るつもりだったから西寄りへ歩いたせいかもしれない。

臨幸峠(信濃中島)

3週間ぶりに晴れの木曜日になった。もう10月で晴れれば朝は冷え込むだろうに、どういうわけか気温はやたらと高い。南相木ダムから蟻ヶ峰に登る予定でいたが、事情があって転進することにし、同じ南相木村の臨幸峠へ登ることになった。私にとっては去年の春以来となる。

地形図に破線が残っているものの、廃道に近い峠道とあっては、葉の茂った時季ならなお難しくなるが、まだ記憶が新しいので迷うこともなく踏跡を追うことができた。古い峠道らしく屈曲を繰り返し、傾斜が強まることもなく登っていく。ところどころで倒木に行く手がさえぎられるようになると径形が怪しくなる。去年より倒木は増えているように感じる。去年我々が登って以来、何人がこの峠道を歩いたことだろう。ひょっとするとひとりもいないかもしれない。

かつてはこの稜線を越えて南相木の人間は佐久往還に出たことになる。今でも地形図には臨幸峠のほかに合羽坂、大芝峠の峠道の破線が残っているが、そのいずれもが廃道で、そのうちには地形図から名前が消えるかもしれない。

現在の村役場のある場所が古くからの村の中心地だとすると、そこを相木側の起点とする臨幸峠がもっとも人通りの多い峠だったことであろう。私の持っている昭和50年代のガイドブックには広瀬からこの峠を越えるハイキングコースが載っており、その時代にもまだ歩く人がいたらしい。いずれの峠道からも完全に人影が絶えたのは、小沢志なの入トンネルが開通したからだろうか。このトンネルのおかげで、我々の住処からも南相木はぐっと近くなった。それ以前は小海まで迂回しなければならなかったのだから。

今の臨幸峠には峠を示す何物も残っていない。万物流転、変わらないのは、相木側から登ってきたとき、峠で目の前に広がる野辺山原の明るさと広さ、そして山の形だけだろう。気温の高かった昨日、峠を渡っていく風は最初は心地よかったが、、やはり秋の標高1500mである。じっとしていると寒くなってきた。すがぬまさんが絵を一枚描き終えるのを待って、往路を下った。

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