源氏山・大峠山(奈良田)

源氏山が麓から目立つ山というわけでもないのに人に知られ、山梨百名山に選ばれたりしたのは「源氏」という名前にあるように思う。名前の由来には諸説あるようだが、いずれも神話に属するようなことで証明のしようがない。しかし、かつては普通に往来のあった峠道がこの山のすぐ北側を越えていたことを思うと、現在の我々が考えるよりはずっと身近な山だったわけで、伝説を生む逸話くらいはいくらでもあったことだろう。

別に何がどうというわけでもない、山奥のちょっとした突起が「源氏」という名前があることで人心をくすぐるのだから名前というのは大したもので、名前がなかったり、「丸山」や「高山」などという平凡な名前を付けられているせいで、まるで登る人のいない、源氏山よりよほど立派に見える山があたりにいくつもある(たとえば添付写真の悪沢岳の手前の山)。

それはさておき、山登りのための車なのに坂道に弱い山旅号は10人の定員一杯を乗せて丸山林道を何とか登り切った。

丸山林道から分岐した林道足馴線の工事で、行くたびに状況の変わっているのが源氏山へ至る尾根道だが、今回も入口のところに崩落のため通行止の看板があった。林道が延長するにしたがって登山口は南に移動し、以前からの尾根道は荒れるにまかせていたのが、数年前に一度手を入れて再び日の目を見たはずだったのが、また荒れたというのだろうか。

林道を歩いていくとその理由がわかった。尾根からそっくり山が崩落しており、林道も半分なくなっていたのである。ただでさえ崩れやすそうなこの山域だから、これからもこういったことは起こると思う。5月の終わりだというのに、かなりの雪渓が残っていて、この冬の豪雪を思い出させた。そのせいによる崩落もあったと思われる。かつて大峠山の西から稜線を北へたどったことがあるが、恒久的な登山道を拓くならこの稜線が確実で登山者も安全だろう。

今回は大峠山だけにするという横山夫妻と分岐で別れ、残りは源氏山に向かったが、このあたりで雷鳴が聞こえて急に天気が悪くなりはじめた。

ミツバツツジがまだ咲いていて、これではイワカガミにはまだ早いかと思ったが、源氏山の最後の登りにかかるといくつも花を見ることができた。このあたりのイワカガミは白花である。かつてはツバメオモトがやたらと多い径だったが、絶えたか、まだ早かったのかもしれない。

源氏山の滞在はわずかで、横山夫妻の待つ大峠山へ戻る。ちょうど正午に頂上に着いて昼休みとなったが、ぱらぱらと降り出して木陰に隠れて昼食をとった。しかし下山時には再び日ざしも出て、しっとりと美しさを増した新緑の中を下ることができた。移り変わりの激しい天候のおかげで、午前中には見えなかった農鳥岳も姿を現していた。

同じくらいの標高でも奥秩父や大菩薩より、山の気が重々しい感じがするのは南アルプス前衛の山に特有の雰囲気で、私が丸山林道にあまり車を乗り入れたくない理由はそこにあるように思う。ちょっと危険な感じがするのである。しかし、その丸山林道を使ってでも、何度もこの山域を訪れるのは、やはりその独特の雰囲気のせいであろう。

七面山(七面山)

10年ぶりの七面山であった。木曜山行もずい分長く続いているものである。

泊りでの山は天気がことのほか気になるが、当日が近づくにつれて天気予報が悪化してきた。初日は敬慎院まで、翌日に登頂して下山という予定だったが、2日目は朝から雨の予報となり、できれば初日のうちに登頂をしなければということになった。しかし羽衣からの標高差は1500m、これは近来にないハードコースである。ともあれ登ってみた具合で考えるしかない。

初日は予報よりは好天で、薄日が射していた。しかしそのせいでかなり暑い。山奥に感じられても、羽衣は標高500mしかないのである。一丁も登るうちには次々に薄着になることになった。

荘厳な雰囲気は登山道というよりは参拝路だからで、道の両側には杉の大木も多く、老若男女が歩けるようにと傾斜は歩きやすくつけられている。単調ではあってもそんな道のおかげでいつの間にやら高度を稼いでいる。植生が亜高山めいて、敬慎院の和光門を午後1時には通過した。これなら今日中に登頂ができるだろう。それにしてもこの山中に突然現れる伽藍には毎度のことながら驚かされる。

随身門を過ぎるとやっと普通の登山道らしい雰囲気となる。間近で見るとすごい迫力のナナイタガレも霧に隠されずに見ることができ、深山の趣の濃いシラビソの林を抜け、5時間かけて登頂した。

1000人泊ることがあるという敬慎院に泊ったのは我々以外には4人だけだった。そのたった11人で朝夕のお勤めに参加したが、読経の僧侶が10人近くもいるのだから、ほとんどマンツーマンである。現在本堂の奥の方で230年ぶりという改修工事中で、ご本尊七面大明神は普段よりずっと前の方に置かれている。そこで本来であれば遠くて見えないお顔をよく拝見することができた。10年前にもやはり朝夕の勤行をしたが、作法が変わったように感じられた。10年もたつとやり方が変わるのかもしれない。

勤行が終わり、長い布団に11人がずらりと並んで寝たのは8時。9時消灯とはいうもののやることもないので寝るしかない。例によって朝までは長いが、隣に気をつかう長布団ではなおさらで、起床4時はかえってありがたい。3時半にはもぞもぞと起き出した。

小雨は降っているらしいが院内のモニターには富士のシルエットが映っていたので遥拝所へ急ぐ。ご来光を拝むという天気でもなかったが、それでも前日にはまったく富士山など見られなかったのだから幸運のうちである。

朝の勤行を済まして朝食を終え、敬慎院を出たのはまだ6時過ぎ、もったいないようだが、これから雨が本格的になるだろうというのでは急いで下るしかない。幸い雨はさほど強まらず、木の下では傘の必要もないまま北口登山道を順調に下って、10時には角瀬に到着した。表口に較べると北口登山道は樹林の雰囲気がいいので楽しいが、しかし長い長い下山道である。

かつて日本経済新聞に七面山について書いたのでリンクを貼っておこう。http://yamatabi.info/7mensan.htm

カンマンボロンから瑞牆山(瑞牆山)

瑞牆山のまわりは歩いているが、そのものにはとんとご無沙汰だったのは、人の多いことが年々嫌いになるからで、別に山の責任ではない。相変わらず瑞牆山はいい山である。

カンマンボロンからの瑞牆山のリクエストがあったので、瑞牆山荘からならもう結構だが、それならいいかと木曜山行の計画に入れた。ところが悪天順延でリクエストしたおとみ山は来られなくなった。

それでも順延などものともしない方々と金曜なら都合がつく人が四方から4人集まった。そのいずれもがお互いに初対面というのは珍しい話、しかしそこは同好者同士、5分も歩くうちには数年来の知己のようになった。

調べてみたらカンマンボロンのルートは8年ぶりで、それも晩秋だったからルートの見極めは比較的楽だった。しかし今回は緑の覆われた時季だから少々難しくなるかもしれないと思った。もっとも、この時季ならではのシャクナゲの森が楽しみなのである。

天気は順延しただけの甲斐のあった快晴に明けた。入梅して以来最高の天気だが、これも午後からは不安定になるという。

8年もたてば記憶もあいまいで、しかもこの季節は初めてとあって、こんな径だったかなあと少々疑いながら歩き出したが、踏跡が北を指すようになってからは記憶もよみがえってきた。

カンマンボロンのある洞ノ岩は葉の落ちた時季なら行く手に見えるので、それとわかっていれば簡単だが、クライマーの踏跡に惑わされて少々寄り道をした。カンマンボロンとは大日如来の意だといい、この岩壁に誰かによって彫られている文字がそれを表すというのだが、よくもこじつけたもので、どう見ても水の浸食である。

シャクナゲにはは少々遅いかと思われたが、標高を上げるにつれ見事になった。それにしても急登の連続で、そんな記憶が欠落しているのはやはりこちらも若かったからだろう。

一般道に合流してひと登りで頂上に着いた。珍しいことに2人がいるだけの静かな頂上だった。奥秩父の山々以外は雲の中だったが、それでも上出来の好天である。八ヶ岳南麓は雨が降っているらしく白く煙っており、それが東に来ればこのあたりも危ないと思いながら昼休みをしているうちにはには案の定雨滴が顔に当たり始めた。

長居したい頂上だが濡れるのも閉口だから下山にかかる。当初は富士見平小屋から出発点に戻るつもりだったのを、雨が南寄りに通ると予想して、不動沢を下ることにした。不動沢のシャクナゲも見たい。

それが功を奏したのか、降られることもなく下山した。途中のシャクナゲの森は少々花は散っていたが、それでも久しぶりの花の当たり年には違いなかったろう、場所によっては葉より花が多いのではないかという光景も見られた。


野麦峠(野麦)

山本茂実の『あゝ野麦峠』を読んだのはおそらく高校生のときだったと思う。高校の図書館には確実に置いてあっただろうし、当時は山に関するような本は片っ端から読んでいたから、いわゆる山岳書の範疇には入らないようなこの本も、その題名から手にしたことだろう。当然、野麦峠という名前はこの本を読む以前には知らなかったはずである。

当時持っていた松本や高山周辺のガイドブックには野麦峠を歩いて越えるコースが載っていて、コースタイムは10時間近くもかかると書かれていたように覚えている。名古屋からどうやったら行けるだろうと地図上で計画したが結局実現はしなかった。その頃は徳本峠にもかなり興味を持っていたものだが、山そのものより峠や行程に興味を持つとは、今にして思えば爺むさい高校生だったのかもしれない。

ちょうど明治百年を迎えるころに書かれた『あゝ野麦峠』には「ある製糸工女哀史」との副題がつくが、その後、この本の冒頭にある政井みねの悲話を本筋にした映画のヒットもあって、「哀史」の部分のみがクローズアップされて現在に至っているように思う。

しかし作者の意図は、たった百年で世界の経済大国にのし上がった日本という国のどこにでもころがっていた、普通なら決して取り上げられることのない、最下層でその発展を支えた人々の証言を集め、いったい明治とは、そしてこの百年が何だったのかをあぶり出そうとしたことにあった。その意味ではこの本の記述はいたって乾いたもので、「哀史」の部分ばかりがひとり歩きしたのは必ずしも作者の本意ではなかったのではないかと想像される。

もっとも、作品は作者の手を離れたら実はもう作者のものではない。日本人のお涙頂戴的な話を好むところがこの250万部も売れたというベストセラーの要因であったろうし、その結果、今では野麦峠のイメージは「哀史」から逃れられなくなっているのである。

それはさておき、野麦峠のことなどすっかり忘れていたが、去年、宿のお客さんから飛騨側の峠路はよく残っていて、きちんと整備もされていると聞き、ならば行ってみたいと考えたのがこの日の木曜山行の計画になった。

野麦峠はかなり遠いイメージがあったことも、今まで頭に浮かばなかった原因なのだが、伊那から木曽に通じる権兵衛トンネルを使えば近いのではないかと思い調べてみると、何もそのトンネルを使うこともなく、松本から上高地へと向かう勝手知ったる道から野麦街道へと入るほうがわずかながら近いことがわかった。距離は片道130キロ程度で高尾山へ行くのと変わらない。峠路そのものを歩く時間はたいしたことはないからそのくらいの距離なら日帰りで充分である。

実際、朝6時にロッジを出て、飛騨側の入口から登り、別に急ぐこともなく、11時過ぎには峠の展望台で乗鞍岳を眺めながら早い昼食を摂っていたのである。

古い峠路はさすがに歩きやすい。途中にある地蔵堂から尾根の北側を歩くようになると植生もいかにも雪国らしい雰囲気になった。出色の径は、しかし最後には少々俗な野麦峠へ出るのが玉にキズではある。しかし、ここが観光地でなければ遠くから日帰りできるような車道もないことを思えば、これもかなり自分勝手な考え方ではあろう。

新緑の美しい峠路からは「哀史」など微塵も感じられない。公園化した峠ではなおさらである。

最後の最後にそれまでてっぺんを雲に隠していた乗鞍岳が全容を現した。峠越えをした工女たちがこの山をどういう思いで見たかなど絶対に我々に理解することはできない。それを雄大で美しいと素直に考えられる今を、難しいことはヌキにして、良かったと思うのが健全な精神だと思う。

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