ダケカンバの丘(霧ヶ峰)

県東部の積雪が多いと聞いて、あっさりと当初の予定だった九鬼山は中止にし、せっかくの雪なのだからスノーシュー歩きに切り替えることにした。先週、順延したせいでゼブラ山に人が集まらなかったので、またそちらへ行くことにしたが、まったく同じでは私もつまらないので、今回はひとつ東の尾根のダケカンバの丘を目標とした。

何といっても新雪だから千載一遇のチャンスと言わねばならない。おまけに、富士見あたりでは白い空だったのが、みるみる青くなってきた。出発点まで来ると、あたりの木々に積もった雪もまだ融けずに残っている。山に入ると、さすがに春の雪でさほど軽いとはいえないが、それでも降りたての雪には動物の足跡すらまったくなく、実になめらかである。

先頭ラッセルが続いて足の付け根が痛くなってきたので、代わる代わる先頭を交代してもらう。先週と違って総勢5人なので楽ができた。それでも傾斜が徐々に強まると歩みは遅々となった。

上を見ると動物の群れでも通ったかのような踏跡があった。そこまで登ってよく見るとスノーシューの足跡である。前日だろうか私たちの直前にここを下った一団があるらしい。下っていく方向から察するに、鷹山スキー場のリフトを利用して登り、スノーシューで下るといったコースだったのだろう。10人以上は歩いたと思われる。なんだ、一番乗りではなかったかと少し残念には思ったが、いい加減ラッセルにはうんざりしていたので、このトレースには助けられた。30分くらいは短縮できたと思う。

ダケカンバの丘の直下まで来ると一気に北アルプス方面の展望が開けた。さらに登ると頸城の山から浅間山、遠く上越国境の山々までが真っ白く並んだ。丘のてっぺんまで登ると御嶽山も現れた。

風もなく暖かく、しかもあたりは新雪で眺めは最高、こんなことは滅多にあるものではない。長くのんびりと昼を過ごしたあとも去りがたい場所だった。

下りは自分たちのトレースを忠実にたどったが、下のほうではすでに半分は融けてしまったかのような雪の量になっていた。それだけ暖かい日だったわけだ。

帰りに立ち寄った温泉が、月に数日だけの半額日で、最後までラッキーづくめの1日であった。

迦葉坂〜山之神社(市川大門)

芦川右岸の山並みの滝戸山以西はほとんど人の訪れのないところであるが、今でも地形図に残る多くの峠道の破線から察するに、かつてはかなりの往来があったことであろう。点在する集落が各々に都合のいい道筋で山越えをしたからこれだけの峠道ができたのだろうが、車社会になっては当然廃れるばかりで、いずれ地形図からも消えていく運命となろう。実際、迦葉坂の破線は山の北側ではとっくに消えているが、このあたりの峠道では最もしっかり残っているというのに不思議なことではある。

この稜線もところどころつまみ食いして朱線をつなげてきたが、迦葉坂峠(柏尾坂峠)と大峠の間はまだ残したままだった。車で出かけるしかないので回収が厄介だからだが、木曜山行で人数をたのめばタクシーを使っても安上がりになるだろうともくろんだのであった。ところが参加者が少なく、タクシー代がもったいなく思われたので自転車を活用することにし、おのずと右左口トンネルの脇から登りだす予定を、ずっと下の、宿(集落名。かつての宿場がそのまま集落名となったのであろう)からの出発とすることにした。

宿の迦葉坂入口には新しい看板があったが、その後の道は整備されているとはいえず、竹やぶを分けるような部分が多い。右左口トンネルの入口から道は良くなり、立派な道標や案内板もある。珍しく観音像が多く残るのがこの道の特徴で、これはおそらく山梨県内でも随一だと思われる。それで整備の手も入っているわけで、先回山抜けでロープが張られていた場所にもあらたに丸木橋が架けられていた。それにしても入山者はごく少ないことだろう。今回、すくなくとも3体の観音像が倒れていて、それを立て直すことになったが、自然と倒れてしまうものだろうか。

迦葉坂峠からは初めての道だが、そこそこの踏跡があった。ゴミが多いのは登山者よりはハンターや山仕事の人間が多いからだろう。ところどころ尾根が広がって、一升瓶がころがっているところをみると、そこでは、かつて山仕事をする人の生活があったのかもしれない。自転車が半ば朽ちて残っていたのは不思議で、ここまで乗ってきた人がいたのだろうか。さっそく試乗会となったが、そういったときには「乗り」のいいおとみ山がまたがることになる。

まだ殺風景だが、ふた月後にはさぞ美しくなるだろうという林が多く残っていた。春秋にまた歩きたい稜線であった。

大峠の手前で、茶屋平と呼ばれる山を巻くのだが、そこから山之神社までがもっとも道が錯綜して難しいところ。もっとも、何かの測量でもしているのか、あらたなテープがそこら中にあって、以前にくらべると道筋もわかりやすいかもしれない。

山之神社からは千本桜の参道をのんびりと下った。ひと月後には花見客でにぎわうことであろう。

楡沢山(宮木)

楡沢山の名前を知ったのは山村正光さんの『中央本線各駅登山』だったから、もう20年も前のことになる。この本に載った山の多くは登ったが、川岸駅から松本駅間の山だけはほとんど登らないままで、楡沢山もそのひとつだった。

山村さんの選ぶ山はたいていマニアックなのが、この間では特にそうで、ちょいと登るのが面倒に思っていたから残していたのであったが、長野県の藪山はたいてい入山にうるさく、そんなこともなかなか登る気にならない理由でもあった。それが、ついにそんな山にまで手を出すことになったのは、いよいよ手が尽きたからともいえる。

最近、信濃毎日新聞社から『信州ふるさと120名山』という本が出て、これは市町村合併前の長野県の120市町村からそれぞれ一山を選んだという面白い本で、辰野町代表として楡沢山が選ばれていた。それでこの山を思い出して計画に入れたのであった。

この本では、体力、技術、危険とも星ひとつで表されていて、すなわち誰でも登れる里山というわけだが、体力、危険はともかく、地図を読みルートを選んで登る技術はかなり必要だと思った。ガイド文には簡単ではないと書いてあるから、技術に関しては星をつけ間違えたのだろう。

信州のこの手の山に必ず現れる、きのこ山につき立入禁止のビニールテープが相変わらず見苦しい。葉が茂れば難渋するような径がずっと続く。高度が上がると新雪が靴が埋まるくらいは積もっており、ちょっとしたラッセルになった。赤松林がなくなった、最後の100mくらいが好ましい樹林の雰囲気で、これなら文句はない。

頂上は2等三角点と大きなイチイの木と石祠が目立つだけの小広い平で、山名標もないのはすっきりしていてなかなか良い。ちょっと暗い感じがしたので、少し南に下ったところで昼休みとした。

最初は同じ径を往復するつもりだったのだが、それも芸がないと、昼休みの場所から南東尾根を下って周回することにした。適度な積雪を踏んでぐんぐん下るとまた赤松林となってビニールテープがはためいていた。きのこ山だけに踏跡がやたらと多いが、いずれもすっきりとした径ではない。それを適当に拾いながら駐車場所へ戻った。

道標皆無、藪は濃い、きのこ山だからわざわざこれから登山道を整備することは考えられない、となると、この山のマニアックな地位はあまり揺るがないと思われる。ともかく9月から11月くらいは近づかないほうがいいだろう。夏はどう考えても快適ではないし、春の山菜の時季もうるさく言われそうだから、つまりは完全に冬にだけ登る山といえそうだ。

古部山(笹子)

14年ぶりの古部山であった。そのときとまったく同じルートで登ったのだが、山の記憶などすぐに途切れ途切れになるもので、10年以上も前のことになると、ごくわずかな、しかも人工的な部分の記憶が残っているだけで、山径の具合などまったく記憶になく、初めて登るようなものである。もっと簡単に歩いたように思っていたのが、下りついたら、もう充分といった気分になったのは、それが歳月というものであろう。それにしても、私などよりずっと年かさの方々のよくお歩きになることよ。

ことほどさように、古部山をめぐる馬蹄型一周コースは、出発点と頂上の標高差だけでは済まない、10指にも達する山を越える縦走で、しかもその傾斜がいずれも急である。

古部山という名前は古部集落の奥の詰めにあたるといったことで、顕著な尾根のジャンクションになる小ピークだからそこをもって頂上としたのだろうが、およそ山の頂上という感じではなく、ぶらさがった山名標でもなければ通り過ぎてしまうようなところである。もっともその周辺の樹林の雰囲気はすばらしく、芽吹きの頃にでも登れば、さぞ気分がいいことだろう。

以前よりも踏跡がかなり濃くなっているように感じたのは甲斐大和駅から直接取り付けるせいで、こんな山も首都圏の藪山党には有名になっているのかもしれない。昨日も他の登山者がひとりいた。木曜山行ではめずらしいことである。

水野田山から大天狗にかけて謎の遊歩道があり、その途中にはフィールドアスレチックの設備があるのがこのコースの異例なところで、すなわち藪山登りに来て、途中で豪華なすべり台で遊ぶことができるのである。この世に藪山多かれといえども、この山にしかないお楽しみ?であろう。

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