棚横手と大滝山(宮宕山)(大菩薩峠)

この山域ほど行くたびに様子の変わっているところはない。平成に入ってから4度の山火事があったせいだが、2005年に木曜山行で登ってからも2度焼けている。皆伐しても、ものの5年もすれば灌木が伸びて展望を隠してしまうものだが、木が育つ前にまた焼けてしまっているので相変わらず展望がいいことは喜ぶべきことではないとはいうものの、頂稜に出たときの展望の良さが無類なのはやはりうれしい。

ことほどさように、今のところは大展望こそを身上とする山である。昨日はそれを楽しむには絶好の天気であった。大滝不動まで車を上げれば、もう稜線までは大したこともない。朝の光線が白峰三山を照らしている間には富士見台へ到着し、早くも大休止とあいなった。

地形図が改訂のとき、それまでの「高尾山」が「宮宕山」、「宮宕山」が「大滝山」と名前が変わり、山名標示のなかった三角点峰には「棚横手山」と山名が入った。国土地理院は地元の役場にでも聞いて改訂するのだろうが、その地元勝沼町でつけた道標の類はすべて旧来のままなのだから、何も知らぬ登山者はさぞ惑うことであろう。

それにしても、長年親しんでしまった地名はなかなか頭から離れないから、その名前が本当だと言われても入れ替えは簡単ではない。

「棚横手山」も、どういうわけかここを山梨百名山に選んだ人がいて、ひとつの山として市民権を得て地形図にも記載されるに至ったわけだが、どう考えても、もし百名山に推すのなら隣の大滝山(昔の地図の宮宕山)であるべきで、見識のない人間が名山選びに加担するとこういった馬鹿げた結果になる見本のようなものである。本来、棚横手とは、この山を巻く横手道をさす。

その棚横手の手前にも立派な林道が横切り、なお延伸中のようであった。この道もまだ地図には記載がないから、地形図で歩く人は惑わされることだろう。地図の破線がとっくに林道になっていたり、立派な歩道が地図になかったりとか、なにかと混乱する山域ではある。

宮宕山(地図の大滝山、ああややこしい)もかつての印象はまるで失われていたが、とにもかくにもこの日の最高点を踏んだ。しかしそこでお昼にするには殺風景なので、少し戻って富士が正面に眺められる所で長い昼休みとした。


白鳥山(富士宮)

白鳥山は付近の山を登った帰りがけに行ったことは何度かあるが、車から降りてものの10分ともなれば、登ったとはとてもいえない。一度は麓からきちんと登ってみようとこの3月に計画したが大震災で中止にした。そこで年末にもう一度計画したのであった。

それにしても標高1000mの土地に住む者がわざわざ70mまで下り、600mに満たない山に登ろうというのだからご苦労な話ではある。

今回は久しぶりに参加するSさんが小学生のお孫さんをふたり連れてくるというので、木曜山行としては、わが娘の例をのぞけば前代未聞の布陣となったのであった。まあそんな布陣も白鳥山ならお似合いではあろう、山梨県南端まで文字通りの遠足となった。

富士を眺めに行く以外にさほどの用はない山なのだから天気が心配されたが、くっきりとまではいかないが、すでに登山口でも富士山は間近にそびえていた。

竹林に始まり、茶畑を横切ると、あとはひたすら杉檜の林の中を登る。これぞ静岡の低山ではある。ひと汗かいたころ頂上に着くと、前にも増して公園化がすすんでおり、これも山梨百名山効果のひとつであろう。富士山の眺望がいいのは言うまでもないが、百名山になる直前までは頂上から富士山の眺望はほとんどなかったのである。

数年前にはなかった「恋人の聖地」などと書かれたハート型に切り抜いた石碑と、その横にわけのわからない鐘が新たに造られており、低俗のきわみである。「恋人」はいずれ変わるのだから「変人」と書いておいたほうが手っ取り早い。

太宰治の『富嶽百景』に「富士も俗なら法師も俗で・・・」といったような一節があったように覚えているが、どうも富士山は物事を俗にする力を持っているらしい。

乾沢の頭(谷戸)

納会の日には早く帰ってこられるように地元の手ごろな山を選んでいるが、それには津金の山がもってこいである。しかしそれも少々枯渇気味になってきた。最後に残ったともいえる山が乾沢の頭(雨竜山)であった。

まだ週例木曜山行になる前、月に一度の水曜日に企画山行をしていたときに一度登り、木曜山行でも津金山地を一気に縦走したときに頂上を踏んでいるが、それももうずい分前の話となった。ほとんど記憶も薄れている。

寒い日だった。ことに風が強いのには参った。八ヶ岳を望む稜線に出るとさらに風は強まり、急登をこなしても汗もかかなかった。山頂で早い昼にするはずだったが、のんびりした気分にもなれないのでさっさと下り、温泉に飛び込むことにした。

午後はロッジにて今年の山行の画像を見て楽しみ、夜にはここ数年恒例の会場となった方々亭に13人が集まった。貸切だから誰に遠慮もない。飲めや歌えで夜は更けていったのであった。


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