撥岩(茅ヶ岳)

ぐっと冷えた朝、まるで秋のようなくっきりした風景が広がった。山々に新緑が駆け上っていくようすがはっきりとわかる。

2年前のちょうど同じころ、マウントピア黒平から升形山に登った。そのときの新緑は実にすばらしいものだったが、晴れていたわりには眺望が今ひとつだったので、また行きたいなと思っていた。

それでも何度も行った升形山では面白くない、調べてみると、黒富士峠の東側に撥岩(ばちいわ)という眺めのよい岩場をあるらしい。ならばそこへ行ってみようということになった。

マウントピア黒平の管理人、藤原さんが拓いた登山道は、相変わらず地面は柔らかく、ニリンソウの花を踏みつけずには歩けない。つまりそれだけ入山者が少ないというわけで、藤原さんには不本意かもしれないが、我々にとっては天国のような径である。

沢沿いの径をさかのぼる。沢音が消えると、季節も同時にさかのぼって、芝を植えたような林床が美しい落葉松林は今しも芽吹いたばかりである。しばしの急登を経て黒富士峠へとびだす。

2年前、藤原さんに、あそこの落葉松の何本かを切ると黒富士峠は文字通りの黒富士峠になるでしょうとお願いしてあったのが実現していた。黒富士がなぜ黒富士か、それを山村正光さんの本に教えられて以来、いつか自分もちゃんと見たいものだと思っていた風景がそこにあった。

本物の富士山の横に並ぶ相似形の山、これが黒富士の名の由来である。だがこの山が富士山形になって富士山と並ぶのはほとんどこのポイントでしかない。黒富士に登る人のほとんどが違うコースをとるため、なぜ黒富士と呼ばれるのか不思議に思われているのである。

それにしても、黒富士峠はいいところである。八ヶ岳の眺めも申し分なく、短い笹の上にごろごろと寝そべって駄弁るには最適な場所である。

ここから踏跡をたどって撥岩まではさほどの距離ではないが、とたんに藪っぽくなるのは仕方がない。撥岩のてっぺんは4人も立てば満員である。西側以外の展望がすばらしく、見渡せる山々もさることながら、山腹の新緑の諧調に感嘆した。

降ったのち、マウントピア黒平で藤原さんにお話を伺いながら山菜とお茶をごちそうになった。

新緑を2度楽しんだから、こんどは秋もいいだろうなあと思いながら帰途についた。

戸倉山(市野瀬)

木曜山行での大鹿村行きもこれで3回目となる。去年は6月だったが、少々新緑には遅い感じがしたので今年は2週間早めた。

天気予報は予定の2日とも悪天、その前後は好天だというのだからついていないが、宿をとっているので中止というわけにはいかない。

出発の朝、はやくも小雨が降ってきた。車の窓を打つ雨はしばしば強くなる。しかし念力をかけながら高速道路を走るうち、なんとなく小康状態になった。駒ヶ根で名古屋のNさんと合流、戸倉山の登山口に向かった。

戸倉山は2005年4月以来である。新緑の時季に歩いたらすばらしいだろうと思った径は、そのとおり、すばらしい緑に覆われていた。上手につけられた登山道で意外なほど簡単に頂上にたどり着く。

展望のいいはずの山頂にそれがないのはあいにくだが、この予報に雨具を出すこともなかったのは上出来といえよう。立派な避難小屋があるのも雨のときはありがたい山で、今回も少々気温が低かったので、昼食に小屋を使わせてもらった。

傾斜の緩い登山道はなおさら下山は楽である。順調に下ったのち分杭峠を経て大鹿村へ南下する。有名な鹿塩温泉の元湯山塩館で、今宵の宿、延齢草の佐藤さんと落ち合った。彼の口利きで塩湯を特別に時間外に使わせてもらい、貸切で山の汗を流した。私にとっては12年ぶりの山塩館であった。1歳になったばかりだった娘を背負ってやはり戸倉山に登ってから大鹿村へ来て、この温泉宿に泊まったのである。ああ、そうだった、こんな風呂だったなあと感慨深い。

風呂からあがって、1年ぶりの延齢草へと山道を登って到着した。かつての大河原中学校の校舎を移築し、宿として利用している。中学校の校章に使われていたのが延齢草の図柄で、それが宿の名前の由来である。

食堂はかつての校長室だったとか。そこで、何から何まで大鹿村の食材でできた料理を肴に、宿の佐藤さんも加わった宴は夜遅くまで続いたのであった。


鳥倉山(大河原)

屋根を打つ雨音が夜じゅう続いていた。これだけ降れば朝にはやむだろうと頭の隅に思いながら寝ていた。案の定夜明けころには小雨となり、わざと遅くした朝食をとるころには薄日もさしてきた。

道案内を頼む佐藤さんも一緒に鳥倉山の登山口に向かう。九十九折の車道でぐいぐい高さを上げ、一気に標高1800mまで達するのだからすごい。鳥倉山が2000mをこえる山だといっても、もうほとんど車が登ってしまったようなものである。

佐藤さんによると、車道を造ったとき、鳥倉山にも遊歩道を整備したというが、それもずい分前の話らしく、すでに道形は消えかけていた。こりゃ遊歩道ではなく幽歩道だという声も出る。

頂稜までは落葉松の植林地だが、そこを抜けると、いかにも南アルプスらしい森となった。ふかふかの苔を踏み、倒木を乗り越えていく。

頂上三角点に触ったあと、少し下った明るいダケカンバの林で昼休みをするうちには、南アルプスが下から姿を現しはじめ、雪渓が見えるまでになってきた。

お目当ての赤石岳はついに全容を現すにはいたらなかったが、悪かった予報を思えばこれも上出来である。次はどの山に登ろうかと周囲の山々の品定めをしたのち帰途についた。

大室山(鳴沢)

長尾山の噴火による溶岩流が青木ヶ原樹海の下地である。大室山のすそを半周する溶岩は今でも画然としている。大室山にさしかかったとたんに地面が変わり植生が変わる。樹海の針葉樹の森から大室山の広葉樹の森に入るとき、その明転は劇的である。

登るにつれ緑は淡くなっていく。その美しさに感嘆する。頂上付近ではミツバツツジが群落をつくっていた。展望もなにもない。森そのものを楽しむ山である。

私の大嫌いなエコツアーばやりである。富士山でも青木ヶ原樹海ではことに多いようだ。昨日もあやうくバス数台を連ねた中学生の一群といっしょになるところであった。

鼻持ちならないエコ思想に洗脳された連中の自主規制がいつしか正義に変身して、個人の山歩きにまで口出しするようになることがある。こうなるとその正義は宗教に似たものになって、議論は通用しない。

これも私の大嫌いな世界遺産にでも富士山がなれば、話はさらにややこしくなるだろう。そうなる前はさほど知名度があるとも思えなかったところに人が押し寄せることになった数々の例を見よ。有志は今のうちに大室山に登って楽しんでおくとよいと思う。くれぐれも個人でだ。

私は、はっきりした径のある、もはや周知の山以外を、どこからどう登ったなどとインターネットで詳しく説明するのを避けるようにしている。かつて今西錦司は「(好きな山があっても)口を割らないというのが、私と山との約束である」と書いたが、その考え方がますます貴重になっているように思う。

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