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『山の本』の「私の好きな里道・山径・峠路」という特集に書いたものです。去年(2004)、十数年ぶりに再訪をはたしました。山そのものは変わらずとも、麓は随分変わっていました。足しげく奥御坂に通っていたころを思い出すと、ちょっと切ない気分になります。この文章の中に書いた、金山から十二ヶ岳に下った鞍部から大淵谷へ下る地点にはには簡単な道標が新たに設置してありました。金山から歩いてきて、天候悪化などの理由で十二ヶ岳の険路をエスケープするにはいいかもしれません。

十二ヶ岳

一度登ってしまえば、後はもうその山には目もくれず、次々に新たな山を探しては登る人がいる。それほど極端でなくても、事情が許せば、いろいろな山に登ってみたいと思う人が多いに違いない。

僕とて同様だと思っていた。そしてたしかにいろいろな山に登ってきた。ところがその範囲はごく狭い。ほとんど、長く住んでいる山梨県と、近接する県を出ることがない。以前はなかなかまとまった休みが取れない仕事のせいだと考えていた。しかし、どうもそればかりではなさそうだ。

頂上をあとにするとき、またここへ来ることがあるだろうかと一抹の寂しい想いが這い上がってくる。山径でも、またここを歩くことがあるだろうかと思ったりする。いっぺんで気に入った場所ならなおさらだ。一度きりなんて、山にも自分にも気の毒だ。そんな想いは対象が山ではないにしろ、幼いころからあったように思うので、年をとったせいというわけではなさそうだ。執着心が強いのだろうか。良くも悪くも性格が山選びに影響しないはずはない。自分の登った山はそばに置いておきたい。山を持ってくるわけにいくまいから自分が身近な距離にいるしかない。

学生時代以来中断していた山登りをほぼ十年ぶりに再開したきっかけは、地元山梨県の山々への開眼だった。日本でも有数の山岳県である。有名な山だけとっても簡単に登りきれる数ではない。それでも休みのたびには山へ通う日々が十年も続けば、相当な数の山に登ることになる。親しい山が増えるにつれて、新たな山に登るとき、その山そのものへの興味もさることながら、その山からかつて訪れた山々を眺める楽しみも増えた。自分の足跡を目の前に数えながら憩うひととき。

いま僕はおそらく山梨県の中でも一番広闊な範囲を眺められる村に住んでいる。ここを選択したのにはいろいろな理由があるが、かつて歩いた山がなるたけ沢山見える場所をというのがそのひとつには違いない。

晴れた村道をゆくとき、まわりの眺めはなんと豪奢なことだろう。そこには自分の想い出が勢ぞろいしているのである。等しく、登った山は親しい友である。それが不遜なら師である。いろんな山に登るのはそんな師を増やすためかとも思える。それらはなんと慈愛に満ちた師だろう。祝福と同時に久濶を責める声がまわり中からする。その声を無視して、どうしてあらたに見ず知らずの遠い山へばかりに出かける余裕があろう。それに、見える範囲にもまだ頂上を知らぬ山がある。放っておくわけにはいかないではないか。

村から眺める富士山の裾野を隠して連なっているのが御坂山地である。学校を卒業してからの20年近くをこの山中で過ごした懐かしい山々だ。甲斐の国を国中と郡内に分けるこの山地は、東西にほぼ一筋の稜線で連なるだけだから、そこにある山々はいちいち指呼できるのだが、ただひとつだけ、富士山側に大きく張り出した支尾根の上にある十二ヶ岳は、ことに想い出深い山だというのに、残念ながらこちらから望むことができない。

山登りを再開した当初、もっとも足しげく通ったのがこの十二ヶ岳であった。ふた月あまりの間に四度も登ったのだから、同じところに何度でも行きたいという傾向は最初からあったのである。同じ御坂山地でも東方に位置する御坂峠に職を持っていた僕にとって、大石峠以西のいわゆる奥御坂は新鮮な感じのするところだったし、まだ若く、早起きが苦手だった僕には、遅寝していても出かけられる距離も好都合だった。

河口湖の南岸あたりから北岸にせまる御坂山地を眺めたとき(もっとも、ここでは誰もが富士山しか見ないだろうが)、まず目を奪われるのがこの山地の盟主である黒岳の重厚と十二ヶ岳の鋭利だろう。いったいに山というのは鈍重よりは鋭く天を指す姿態がより人をひきつけるようだ。特に若い頃はそうで、僕の場合もまずその姿が気に入ったのであった。

秋口から冬にかけて飽きもせずに色々のコースをたどって4度この山の頂上に立った。形から想像される、周囲にさえぎるもののないような展望を持つ頂上ではなかった。足和田山越しの富士も、御坂の主稜も眼下の西湖も、疎林に邪魔されていた。唯一鬼ヶ岳がその双耳峰をすっきりと際立たせているだけである。頂上そのものの魅力というより、毛無山から鋸歯状に続く尾根の(一ヶ岳から十二ヶ岳まで無理やりこじつけたような山名標はご愛嬌だが)ひっきりなしの登降が飽きさせなかったり、ゆるやかに源頭にいたる大淵谷(今はこの名称が2万5千図にも記載されているが、伊藤堅吉氏 "御坂山岳会を創設し御坂の山を広く紹介した人。十二ヶ岳頂上に碑があるらしいが、未見" によると、そんな名称はもともとなく単に奥川というのが正しいそうだ)の向こうに御坂主稜が立ちはだかって、この山地には珍しい奥深さを感じさせたり、さらにコース採りがいくつも考えられたりすることがこの山へ足しげく向かわせたのだろう。でもさすがに続けざまに四度も登れば当分はいいだろうという気になる。その頃はまだ世間中知らぬ山ばかりだったのだから、そうそうひとつの山にかかずらっているわけにもいかなかった。

十二ヶ岳から御坂主稜とのジャンクションピークの金山に至る途中、両側をスズタケにおおわれた尾根に朽ちかけた道標を見た。そこは西湖側から大イリ沢が、河口湖側からは大淵谷が終る地点で、文字は消えていたが矢印は河口湖側を指しているように見え、スズタケの藪の中にはあるかなしかの踏跡もあるようだった。もちろんそんなルートはどんなガイドブックにも載っていない。廃れた径にはそのころから興味があった。だが、おもしろそうだからこれを下ってみようじゃないかというほどの勇気はまだなかった。その径を探ってやろうという気になったのは、せっせと山に通って相当山ずれもして地図を片手にある程度のところなら歩ける自信がついた、その2年半ほどあとのことだった。

大淵谷沿いの林道の大石峠入口に車を置き、まだ結婚したばかりだった妻と歩き始めたのは、木々の緑が木陰をつくるほどでもない5月半ばだった。思えば過去四回の十二ヶ岳も結婚前の妻とふたりで歩いたのだ。物好き同士の結婚である。

小一時間で林道終点になり沢に降りる。等高線から読めるとおりのゆるやかな沢で雪国でもないここでは水量も少ない。歩きやすい場所をさがして右岸左岸と渡って歩いた。小憩したとき、右岸の高みの枝に運良く見つけた赤テープの下には径といってもいいほどの踏跡が続いていた。もう間違いない。これをたどればあの道標のあった場所へ出るだろう。やがて、涸れていく沢を右下に見ながらの急登をしばし、ゆるくなった斜面にはスズタケが多くなり、足さぐりに藪をわけるとひょいっと尾根径に出た。かつてあったはずの道標は跡形もない。こちら側から下り口をさがすのは難しかろう。もっとも、ここから下ろうとする人はまずいないだろうが。

ここからなら、あとは節刀ヶ岳に寄って大石峠をくだるのがもっとも効率がいいが、ここまで来て、なんで十二ヶ岳や毛無山に逢わずにおられようか。しかし節刀ヶ岳にも未練が残る。そこで、節刀ヶ岳を往復して、十二ヶ岳、毛無山経由で帰ることにした。季節が違えばまるで初めてのように新鮮だ。それぞれに久闊を叙したのち淵坂峠(ふちだかとうげ)へ下り、これも地図に破線はあるものの半ば廃れた径を大石峠の入口の車へと戻った。

これもすでに十年以上昔の話となった。それ以来十二ヶ岳には登っていない。年齢とともに文学や音楽の感想が変わるように山の味わい方も変わらないはずはない。次に訪れるときどんな感想を持つだろう。

あなたの好きな山径はと問われて、十二ヶ岳のことを記憶をたどって書いたのは、自分の中に無沙汰をわびる気持ちがあるからだろう。

宿題が増えた。

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