心に映る山

ヤマケイに最初に出した原稿は、図書紹介なのだから、もう少し本の内容について具体的に書いてくれと言われ、なるほどそうかもしれないと書き直した。それほど内容は変わらないが、雑誌に載ったほうは中村さんのサイトで読めるから、ここには書き直す前の文章を載せておこう。


表題の本には、同じ版元の白山書房から出ている『山の本』に掲載された画文が多く収められているが、私が著者の中村さんと知り合ったのもこの季刊誌の縁だった。何度か紀行文を寄せていた私のことを中村さんが覚えていて、私が八ヶ岳南麓で営む山宿を訪れてくれたのである。
 
生まれたのが同じ年の同じ月という全くの同世代、しかもお互いに山好きだからすぐに意気投合、以来十年のお付き合いが続いている。
 
私の近所にある日野春アルプ美術館で初めて中村さんが開いた個展が終ったとき、自宅に持ち帰って再び物置にしまわれるという絵を、そんなことなら私の宿に飾らせてもらえまいかと無遠慮にも頼んだのがきっかけで、今や、宿の廊下や食堂、客室、果てはトイレに至るまで中村さんの絵が飾られ、貧相な宿を豊かにしてくれている。
 
私は美の神から見放された人間だから絵のことをどうのこうのと言う資格はないが、文章で説明できるくらいなら絵の意味はない、絵の評論など絵とは別世界の作業だとは思っている。
 
絵は見る者の感情にまず訴える。あとで感銘を言葉にしたところで付けたりにすぎない。したがって画家の創作の動機も決して理性に支配されてはいないと思われる。しかも中村さんのように山に分け入って偶然の邂逅を頼みに描く画家ならなおさら、絵筆を取らせるのは一種の忘我に近い興奮によるに違いないのである。それはこの本のあとがきで「その場から歩を進められない思い」と表現されている。
 
数年前、三度目のアルプ美術館での個展の最終日、奇しくも私の飼犬が死んだ。中村さんにもずい分可愛がってもらった犬である。個展開催中は私の宿に泊まっていた中村さんは帰ってきて犬の死を知ったのだったが、悲しむ間もあらばこそ食堂に置いた棺の前に正座し犬の亡骸をスケッチし始めた。見る見る犬の死顔が描かれてゆく。
 
コンテを叩きつけるように描く後姿を見ながら、私は犬と過ごした日々を言葉で頭に浮かべてこね回していた。しかしこんなとき文章とは論理とはなんと不粋で不埒なものだろう。
 
同様にこの本に収められた絵が描かれたときに私は何度か立会い、言葉を弄するしかない自分の無力を思った。
 
中村さんの『心に映る山』とはどのような山か。それはこの清楚なたたずまいの本を手に取ってご覧いただくほかないというのが結論である。