98. 笠取山
       1993(平成5)年10月26日

この連休初めの2日間、すなわち2016年5月の1、2日、中村好至恵さんと笠取小屋に行ってきた。初日、二階建ての「ホリデー快速 ビューやまなし号」という電車はまことに快適そのもの。塩山からはタクシーで高橋の奥まで入り、小屋に荷をあげる鳥小屋経由の車道を登った。笠取小屋の静君(今年64才の由)とは、彼が子供の頃から親しくしていて、先の3月半ばにも一緒にロッジに泊まって昔話をしてきたばかりである(参照)。よって、行けば、下にもおかないVIP待遇である。往路では斎木林道にあがりついた

鳥小屋まで軽トラックで迎えに来てくれたし、寝る場所もストーブのすぐ脇にしつらえてくれるなどと心配りも充分。お天気にも恵まれ、楽しく過ごしてきた。

さて、ここからが、この写真の今から23年前の笠取山である。この時は、日帰りで同行は高校時代の友人3人、一ノ瀬‐一休坂‐笠取小屋‐笠取山‐水神社‐一ノ瀬と一巡してきた。友人3人のうちのHとTとはそれまでにも何度か山に登っているが、Sとはこのときが初めてだった。彼が長い宮仕えを終えたのをよい機会に、これから一緒に山歩きを愉しもうではないかと誘ってみたのだが、道々、どうも楽しそうな顔ではない。あげくのはて、帰りの車中で「山って、歩いているときが面白いのかい、それとも休んでいるときが面白いのかい」と尋ねられて、思わず絶句した。そんなことには答えようがない。そして、もう、こんな奴を山に誘っても無駄だと思った。これ以上はない絶好の秋日和に恵まれ、紅葉がめちゃ美しい山を歩いていながら、そんなことをいいだすなんて、世間には救われない奴もいるものだと慨嘆した。

ところで、今回、笠取小屋に登ってみれば、懐かしさが半分、「こんなはずではなかった」が半分。私が最初に歩いた65年前のことをいうつもりはないが、この10数年来、行くたびに辺り一面下界的俗臭が増してきたような気がしてならない。今しか知らない登山者は、それでも「あぁ、いいところですね」というかもしれないが、私にすれば「なんのなんの、以前はこんなものではなかった、なにしろ昔よかった」と、つい、いいたくなるのである。ただし、ピラミッドの象形文字を解読したところ「昔はよかった」という1句があったというのだから、それは何時の時代にもいう年寄りの繰言かもしれないと思うのである。笠取小屋まであがるようになった車道にしろ、今に至れば鳥小屋から歩けば1時間近くかかる間を楽をさせてもらったのだから、とやかくいってはバチが当たるかも知れないだろう。

なお、掲載の3枚の写真のうち、大岩の上に水神社の石額がのる1枚についていうと、それとほとんど同じ構図ながら縦位置で写したものを『遊歩百山』(10号/1994.10)という雑誌に載せたことがある(参照)。そこで、この雑誌についていうと、それは私が古くから知る友人のWさんが個人で発刊し、一口でいえば、依頼と投稿の山の紀行文をまとめたものだった。1990年12月から1995年6月の間に、ほぼ季刊的に12冊が出ている。

最初、「こんな本をつくるから」と私にも相談があったときには「この人に書いてもらったら」というアドバイスをしたし、号を追って私も何篇かの文章と写真を載せるようになった。ただし原稿料はなし。私は友人だからそれでもいいが、仄聞すると、執筆者のうちでも支払いを強くいった人には払っているが、大方の人には払っていないそうだ。そこで、彼に「それはまずい。売り物にするのだから、1枚100円でもいいから原稿料を払うべきですよ」といった覚えもあるが、結局はそのままで終わってしまったようだ。しかし、何号目からは表紙に「みんなでつくる山歩きの本」という名文句を刷り込むようになったのに大感心、これが原稿料を払わずに本を作って売る免罪符になるのかもしれない、世の中には知恵者がいるものだとほとほと感じいった。もう、こんなことも、かれこれ20年も前の話になるのだから、ここで書いておいても、そう支障はないだろう。                                  

(2016.5)

中、下の写真はクリックすると大きくなります

横山厚夫さんのちょっと昔の山 カラー篇トップに戻る