アンナプルナ街道 |
1978(昭和53)年2月4〜28日 |
最初、川崎精雄さんが行こうといいだした、このヒマラヤトレッキング。助っ人に加藤隆君の同行を頼み、航空券など用意万端整えたところで、川崎さんが急に「わたしはやめた」といいだした。理由は不明。川崎さんには、時折、ぶいと気が変わるところがあり、何度か悩まされたものである。
仕方ない、加藤君と2人で行こうとなった出発間際、今度は寺田政晴君が知合いの女性を連れて行ってくれないかと頼んできた。その20代初めの女の子、加藤君は「きっと、あれは寺田のメカケですよ」といい、寺田君は「そんなでたらめいわないでください」と必死になって否定したが、結局、加藤君と私、それに突如出現の小娘を加えた3人で出かけることになった。
カトマンズではランジャンさん経営の宿に何日か泊まったが、そこには老ヒッピー然とした高橋照さんが居候的に長逗留していた。川崎さんは昔から高橋さんをよく知っていて、高橋さんがカトマンズにいるならと、多分、そんなことからトレッキングにいってみようと思いついたに違いない。
なお、「ヒマラヤ浪人」と有名な高橋さんも、今となっては「知る人ぞ知る」の人、日本山岳会の会員にしろ何人がご存知だろうか。
高橋照(1914〜1986)
中央大学卒。 昭和10年前後からの名クライマー。山岳巡礼倶楽部会員。戦後は1962年のビッグホワイト・ピーク(6979b)登山隊のリーダーとして初登頂を指揮し、71年にはマナスル西壁登攀隊を率いて成功するなどヒマラヤでも活躍した。著書には『ネパール曼荼羅』『秘境ムスタン潜入記』『マナスル西壁』など。お名前は「あきら」と読むのが正しいが「テルサン」が通称で、織内信彦さんにいたれば「テル」と呼び捨てだった。1946年に日本山岳会入会、会員番号3047。『山岳』第81年(1986)に海野治良さん、高橋定昌さんのお二方による追悼が載っている。
高橋さんは神田にある家業のボタン問屋は奥さんにまかせっきり、私がいった頃はランジャン・ハウスで特になにをするでもなし、ロキシーを朝からちびりちびりの毎日だった。トレッキングのことなど、なにかと相談にのってもらったが、酔っ払い通弊の朝言っていることと夜言うことが正反対のこともあり、いったい、どちらが本当か迷う場合も少なくなかった。
さて、私たちのトレッキングは紆余曲折、ルクラへの飛行機が飛ぶ飛ばないなどもあって、結局はありふれたアンナプルナ街道をポーター2人を連れてのんびり歩くことになった。道中に見た山はマチャプチャリやアンナプルナ・サウス、ダウラギリなど。写真はタトパニの宿のビスニ・ゴーチャンという娘さん。気立てがよく、片言の英語を話した。
(2013.6)
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