奥日光スキー行
  1971(昭和46)年3月26、27日

この3月は、まず7日に中央沿線の大地峠から矢平山、寺下峠の日帰り低山歩き、19日からの3日間は黒百合ヒュツテに泊まって雪の北八ッをあちこち歩いた。

この北八ッには近藤信行さんも一緒だった。好天に恵まれ、楽しく過ごしてきたのはよいが、21日の夕刻、帰った途端に知らされたのが、その日の、茅ヶ岳での深田久弥さんの急逝だった。

そこで、つい先ほど西荻窪駅で分かれた近藤さんに連絡し、また、一緒になにかと役立つことがあるかもしれないと深田夫人と令息に同行して深夜韮崎へ出かけた。いろいろあって、結局、家に帰ったのは22日のお昼近くになった。

当時、深田さんは日本山岳会の副会長であり、その葬儀には山岳会も一役買うことになった。そして、それには図書委員長の山崎安治さんが万事采配を振るとなれば、否応なしに、その配下の委員たちも手伝うことになって、私もその1人。なにかと大忙しだった。

葬儀は23日、杉並は永福町の本願寺別院和田廟所で行われた。この辺のいきさつは山崎さんの「深田久弥氏とのふれあい」(『登山史の発掘』茗溪堂/1979)に詳しい。三田幸夫会長の読む弔辞の下書きにはじまって、山岳会関係者への連絡、お棺を葬儀場から霊柩車へ運ぶ若手会員の手配までやり、かつ式場では坊さんに葬儀屋の番頭と間違えられて不首尾をどやされたりもしたそうだ。

そんなあれやこれやのせいもあってか、山崎さんは「多数の弔電がまいっております」のところを「多数の祝電が……」と大間違い。しかし、それも、もう42年もの昔になって、覚えている人はほとんどいないだろう。なにしろ、深田さんのご子息沢二さんが「父親が亡くなって、もう何年になるのですかねぇ」と私に聞く昨今なのだから、昔々の話というしかない。

さて、この奥日光スキー行は、深田さんが亡くなって当分の間は歌舞音曲は控えたほうがよさそうだが、深田さんも大好きだったスキーならば、ご供養にもなるだろうと勝手な理屈をつけての2日間。新調のショートスキーで、滑るというよりは戦場ヶ原をペタペタ歩きまわった。泊まったのは竜頭の滝近くの懇意にしていた星政旅館だが、ここもずいぶん前に廃業したと聞いている。

(2013.5)                       

中、下の写真はクリックすると大きくなります。

横山厚夫さんのちょっと昔の山 トップに戻る