黒平、金峰山
1972(昭和47)年7月31日〜8月2日

この時は家人と二人、テントを持って金峰山の昔の蔵王権現登拝路(表口)を登り、国師岳からは石楠花新道をくだり徳和へ出て帰った。

早朝の電車で甲府、バスで金桜神社、そこから猫坂を越え下黒平、上黒平へと歩いていったのだが、真夏の昼日中で暑いのなんのって。気息奄々だった。その日のうちに御室小屋までいくつもりだったが、とてもそんな元気はなく、水晶峠手前の沢っぷちでテントを張ってしまった。なお、上黒平には古くからの藤原(家か屋が付いたかも知れない)旅館があり、そこの売店にアイスクリームがあったのには大感激だった。

深田久弥さんの「晩秋の金峰山」を読むと、1923(大正12)年の秋、深田さん一行はやはりこの旅館に泊まっている。「宿屋の前に大きな熊の皮が貼りつけてあつて、それに見惚れてゐると、宿屋の亭主が熊の肉を食はせるから是非泊まつて行けといふ。熊の肉に釣られてついそこで草鞋をぬいだ」(『をちこちの山』山と溪谷社/昭和27年)というのがその一節だが、肉は脂っこくてあまりうまくはなかったそうだ。



上 御室小屋を過ぎると、いよいよ金峰山頂へ向かっての登りが始まる。途中「片手回しの険」の鎖場などのある岩っぽい尾根を伝い、ぐんぐん高度をあげていく。頭上の五丈石が登山者をまねく、気分爽快な登高である。

中 黒平には下(しも)と上(かみ)の集落があるが、これは下黒平の家々だと思う。1997年4月、寺田政晴君と観音峠から曲ヶ岳往復ののち桝形山、1700b峰をへて長窪峠道(廃道に近かった)を下黒平へくだったことがあった。その折、家々の造りは今風になっているにしろ、この山村風景を私は懐旧の思いで眺めた。

下 御室小屋。木暮理太郎さんが登った頃(明治29年)には、ここに神官がいて金峰山登拝者の面倒をみていたという。当然、もっとそれらしい造りの建物だったに違いない。1955年の夏、私はこの小屋に泊まったが、なにしろお粗末な小屋だった。それに近くの沢は伏流になっていて簡単に水が得られなかった記憶がある。

(2012.11) 

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