第十一回 金山平、木暮理太郎翁
            碑前懇親会に参加して

         

                      名古屋  川北 仁

五月十九、二十日の金山平は五月晴れのさわやかな気候であった。山梨支部主催のこの会も、今年は先生の生誕百年記念として盛大に挙行された。

 
十九日、午後四時碑前に集合、山村山梨支部委員長が、碑前祭と、十月の木暮祭の区別について、五月はJACの集まりであり、秋のは、増富観光協会、山梨岳連などとの共催の公的行事であると、それぞれの正確を明らかにしながら、歓迎の辞をのべた。

 
織内副会長は、丁度木暮先生が会長であった、昭和十五年に入会したが、年少会員だったので、遠くの方から恐る恐るお顔を拝見していた。しかし、先生のいわれた、「生涯を通じて山登りを中断してはいけない」この言葉を銘言として山登りをしている、と挨拶をされた。

続いて、霧の旅会の創立者である山崎金次郎氏が、木暮先生がなくなられた時、新潟県の十日町に行っていた。先生は「趣味の会というものは、なかなかつぶれるものじゃない」といわれた。そんなわけで、霧の旅会、JACを通じて先生からの恩恵をこうむり、感謝しながら四季の山登りを楽しんでおる。と話された。

昨年、山崎氏と共に永年会員になられた、野口末延氏は、山に登り始めた頃から、先生のお宅にお訪ねして御指導を受けた。霧の旅会の会員である尾崎喜八君の最初に出した詩集「山の思ひ」の中に「木暮先生」と題する詩があるがといって、これを朗読された。その最後は次のように結んであった。

 ああ 先生
 先生は 本当の人間の生きた証拠
 生きる日々 たまたままよってつまずくとき
 私は 貴方の存在をもって 立ちなおるのです
 

次に、この碑を建て、護ることに力をそそいでいた、三井松男前山梨支部長の未亡人、文恵さんが、今年は仲間に入れてもらえないのが残念だ。しかし皆様にこの会に来ていただくことこそが主人の願いではなかったろうか、と挨拶された。

そのあと、三井氏の後輩の河野幾雄氏が、慶応の山岳部で、夏山に一番最初に連れていってくれたのが三井さんだった。三井さんの山登りは一言でいえば「山を楽しむ」姿勢であった。セルカークの山旅とともに、性格そのものの、のどかな山旅を楽しまれた。甲府にかえってからは、地元のために一生懸命つくされたようだ。ことにこの碑をたてるために、佐藤久一朗先輩にたのんでレリーフを刻み、渡辺広幸君が大谷石を商売にしていたので、地下一千尺から切り出し、ここまだ運んできたりした。三井さんの在りし日を思うと、皆様が木暮さんに抱いたと同じような気持になる、と話された。

このあと、名児耶さん、近藤さん、横山さんなどが記念感話をされ、三井前支部長の遺影を中心にして記念撮影を行い碑前祭を終った。五月の陽光は白樺の梢をゆるがし、快い限りであった。

六時、昔のままわら屋根の有井館でランプに灯を入れて懇親会が始まった。山菜料理の数々、ゆずり原のナガイモ。芦川のワサビ、コンニャク、馬サシ、タラノメ、ワラビ、コゴミ、ヤマウド、ミョウガ、シソノミ、コノメ、これらは支部の方々が当日付近の山で採ってこられたものを、手早く料理したものである。

宴なかばで、窪川五郎氏が、本場アルプスの名花を鉢に咲かせたものを持参し披露された。

今回の記念品、メキシコの手造りのガラスコップが各員の手に渡る頃、金山の夜はふけて、ヨタカがなきだした。

最後は、有井館心づくしの手打ちそばを腹一杯賞味して会を閉じた。

翌二十日、朝食後、思い思いの山を目指して散会した。この日も天気は晴朗、ウグイスの声におくられて、再会を約して金山平をあとにした。

山梨支部には器量人が多く、名コックの平井、山岸、小野むつ子さん、車で黙々と参加者の輸送を担当した山本稔君、酒のお相手をひきうけた、田村、遠藤君ら、本当に御苦労様でした。

私事ながら、二十日、みずがき山から信州峠、信濃川上を経て帰名の途についた。