雲取山・2
  1957(昭和32)年2月13、14日

奥多摩山岳会にいた頃の山行で、鈴木武敏さん、野井篤さんと一緒だった。鴨沢から登って雲取山頂の避難小屋に泊まり、翌日は三条ダルミから三条ノ湯へおりてお祭りにでている。

そして、この時のことを含めて、それまでに登った雪の奥多摩、大菩薩での経験を書いてみると、それを羽賀正太郎さんが『山と溪谷』誌に仲介してくれた。

掲載は、山溪誌がまだA5判だった時代の昭和33年2月号(224号)、「積雪期の奥多摩」と題し400字詰め原稿用紙に14枚書いて、頂戴した原稿料は1750円と記録に残っている。書いたものがお金になったのは、これが初めて。

その翌年に教科書の出版会社に入ったときの初任給が忘れもしない12500円だったから、1750円といえばなかなかの大金だった。ちなみに同号の山溪誌の定価は100円。



上 三条ダルミ。この頃の奥多摩にはけっこう雪が多く積もった。左が鈴木さん。私よりも五つ六つ年上で、岩登りや沢登りの手ほどきをしてもらった。鈴木さんに連れられて鹿沼の岩場、谷川のマチガ沢を登ったが、そのときには鈴木久子さん(現山本)も一緒だった。なお、両鈴木の間にはなんの関係もなく、当時の奥多摩山岳会には鈴木姓が大勢いた。

中 この写真をトリミングしたものが、その山溪誌に載っている。

下 鴨沢から登り始めて一息つくのが小袖乗っ越し。ここから山の腹を巻きながら高度をあげていくと、途中に3軒ほどの民家があった。今は家そのものもなくなっている。背後に大きいのは三頭山。

羽賀正太郎(1914〜1995) 

東京出身。1926(大正15)年に奥多摩御岳山に登って以来、長く登山を続ける。山村民俗の会、東京雲稜会などの会員として活躍し、全日本山岳連盟、東京都山岳連盟などの役員を務めた。多くの案内書を書き、追悼集『高いばかりが山じゃない』がある。

私は長年親しくし、お家が中野にあったので、よく近くの喫茶店でおしゃべりをしたものだ。しかし、今となれば、あのときにもっと聞いておけばよかったと思うことが一杯あって悔いが残る。ところで1959年の東京国体の登山部門では、羽賀さんは役員の1人として氷川町の本部に詰めていたが、一夜、細い三日月を見て、傍らの梶玲樹さんに「梶君、こんなときにロケットを撃ったってなかなか当たらないだろうね」といったというのである。梶さんは奥多摩山岳会の先輩で、やはり国体の折には役員をやっていた。その梶さんが「羽賀正さんは本当にそう思っているのかねぇ? 僕らをからかっているのではないだろうか」と、しきりに首をかしげていた。なお、羽賀さんもそうだが、梶さん、それに、この雪の雲取山で一緒だった鈴木さんも、今となってはみな「彼岸の人」になってしまった。

(2012.11)

           
 中、下の写真はクリックすると大きくなります。

横山厚夫さんのちょっと昔の山 トップに戻る