この時は、あまり歩かれていないコースから登った。中西章さんの先達となれば、尋常の道を選ぶはずはない。よって中央線は大月に下車して、恵能野へバス。あとは恵能野川を長くさかのぼってから滝子山北側の尾根に掻きあがり、鎮西池をへて滝子山に達している。
ご一行には川崎精雄、望月達夫の長老お二方のほか、中西配下の岡田昭夫君と野口庸子さんがいた。この岡田、野口の二人は、ひと頃、中西さんと実によく登っていたが、今はそろって「どこでどうしているのやら」。中西さんも3年前に亡くなってしまい、あれからの30年余の歳月を思うのみである。
上 滝子山は1590.3b、決して楽な山ではない。最寄り笹子駅からだと標高差は約1000bあり、山に取りつけばひた登りに登る急登が待っている。ことに南尾根は登るにつれて岩場混じりのひときは急な登りになってくる。
中 尾根にあがると、こんな山仕事の人がいた。例によって中西さんが調子よく話しかけたことはいうまでもない。
下 立て看板?が、もう1つあり、3番4番が記してあった。「三、鎮西が池に駒止めて/めざす天下を胸中に/映して射れば真しぐら/矢立の杉に雲起こる/池は恵みの雨を呼ぶ 四、 我が子を捨てて最果ての/旅に山鳩幾千里/命預けし恵能野よ/形見に残し手鏡と/小太刀は今も世を語る」。この立て看板は、まだ残っているだろうか。
(2012.10)
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