鈴ヶ音峠、倉岳山
  1957(昭和32)年2月17日

尾崎喜八さんの『山の繪本』は、戦後の1951(昭和26)年に角川文庫の1冊として再刊された。早々に、その中にある「一日秋川にてわが見たるもの」(今なら「なにをキザな題名をつけて」というところだか、二十歳前の初心な若造にはぐっときたものである)を読んで、中央沿線の低山に憧れるようになった。

手始めとして石老山に登ったのが53年3月、この山にはちゃんとした道があったが、足を伸ばして倉岳山辺りになると登る人はほとんどなく、道も定かでなかった。穴路峠を越えるつもりが雛鶴峠の向こうへおりてしまい、畑仕事の人に「ここはどこでしょう」とたずねたときは恥ずかしかった。

奥多摩山岳会に入会したのが1954年11月、以後は道志川や秋山川流域の山へもより多く登るようになり、この写真は会の山行に参加したときに写したもの。当時は雪がよく降り、近郊の低山もいっぱしの雪山に変身して面白かった。



上 鈴ヶ音峠からは尾根伝い高畑山を越し倉岳山まで歩いた。写っているのは赤鞍ヶ岳前後の尾根か西丹沢は焼山続きの山々であろう。はっきりしないが、この時に写した写真であることは間違いない。なにしろ雪たっぷりのたいした山に見えた。

中 今ならスパッツをつけストックをついているだろう。当時は、そんな発想はなく、靴に雪がしみても「つめてぇなぁ」とぼやくくらいのものであった。

下 鈴ヶ音峠へ登りだす前の、おそらく朝日小沢の集落だと思う。写真は写しても、それがどこだとは記録しておかなかったのが悔まれる。                

(2012.10)

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