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   横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠  
   
入笠山と北八ッのふたつの池

 












吾妻連峰・鎌沼畔の新井信太郎さん(右端)

8月の末、29、30日の2日間で東北の吾妻へいった。さらに、そのあと月が変ってすぐに3、4日と入笠山と北八ツに登った。ここで「ロッジ山旅の山と峠」として書くのは入笠山と北八ツのほうだが、行き掛かり上吾妻の山行にも簡単に触れておこう。



雲取山荘の新井信太郎さんと吾妻小舎の遠藤守雄さんとは、毎年、上野の松坂屋で催される夏山相談会で顔を合わせる、旧知の仲である。それにもうだいぶ前のことになるが、遠藤夫妻は私と一緒に雲取山に登って山荘に泊まり新井さんに会っている。そこで新井さんも次は吾妻へいき吾妻小舎に泊まってみたいと前々からいっていた。それが、この度やっと実現することになり、私たち夫婦のほかには大森久雄、泉久恵、三好まき子、仙台からは五十嵐雅子の諸兄姉が加わって、楽しい2日間を過ごした。

なにしろ、新井さんの雲取山荘経営の話は大きくて、皆、度肝を抜かれた。奥秩父には希有な大黒字の小屋(だろうと思う)となれば、泊まり客の数も経費収入の額も桁はずれである。1ヶ月に1000人泊まって1年1万2千人になれば経営はずっと楽、800人ではちょっとつらいと聞けば、遠藤さんは目を白黒させて「うちは1年でもやっと800人ほどだよ」。さらには鎌沼の木道を歩いて、新井さんが「雲取にもこんな水があれば、もっと人がくるのに」と垂涎の口調でいうのを聞き、私たちは呆っ気にとられた。いまや新井さんは立派な企業家であり経営者でなくてなんであろう。

残念なことに、お天気はイマイチだった。行った日の午後は雲は多いながら青空ものぞいて鎌沼一周の散策ができたが、翌日は景場平の湿原にあがったとたんに雨が降りだし、そのまま戻るだけになってしまった。新井さんには東吾妻山か一切経山の上から吾妻連峰の全容を見てもらいたかったのだが、これでは仕方ない。次回のお楽しみというところ。新井さんも吾妻の山と小舎がおおいに気に入ったようで、また出かけたいといっている。



というわけで、吾妻小舎vs雲取山荘の経営問答は抱腹絶倒の面白さだったが、歩くほうでは少々不満が残った。そこで9月早々、お天気が好転してきたのを幸いに、長沢君のところにいってみることにした。

毎年、八月末の家人の誕生日の前後にはロッジ山旅にいくのが恒例になっている。いつもお天気に恵まれて、ついでの山歩きにも満足してきた。今年もお天道様マークが好天を約束してくれた2日間になった。

3日、ホリデー快速終点は小淵沢駅。お昼少し前に着くと長沢君と令嬢の渓ちゃんが待っていてくれて、「入笠山にいきましょう。ゴンドラに乗れば、この時間からでも充分に遊んでこられます」。

山行記録を見ると、前回の入笠山は94年4月であり、まだゴンドラなんてなかったと思う。その後、こちらが歳をとるにつれ、いろいろイージーな乗り物を用意してくれるようになって、まことにありがたい。先の6月も森吉山のゴンドラで、あれよあれよという間に天上高くに連れていってもらった。入笠山のそれは森吉山の半分くらいの規模だが「歩いたら2時間はかかりますよ」という長沢君のいうとおりに、これも10分たらずのうちに下界を遙か見下ろす天上の一角だった。

お山大好きの令嬢もご機嫌麗しく、入笠湿原を横断して1956mの山頂へ。この時間で、なお、これほどの遠望が利くとは珍しいと長沢君が嬉しいことをいってくれる晩夏好日の午後。諏訪湖も北岳もまずまずの眺めだった。ただし、こんな山の上まで車道を四通八達させてよいものか、それに、うろつく人がもう少し少ないほうが気分よいなどとは、ゴンドラで楽を決め込み、すこぶる安直に登りついた人種にはいう資格はないだろう。自戒自戒。

あぁ、よい天気で面白かったと、まだ、陽の高いうちにロッジにつき、テラスで飲むノンアルコールのビールが結構の一言。これまで私の一番の幸せとは、吾妻小舎の朝食、蜂蜜とバターをたっぷりぬったトーストにあるといってきたが、それにもう一つ、夏の日の夕暮れ時、ロッジ山旅のテラスで飲むノンアルコールのビールの味を加えてもよいだろう。ただし「横山さん用のビールも用意してあります」という長沢君の口調には、なんとなく「世の中に酒の飲めない人間がいるなんて信じられない。お可愛そうに」のひびきを感じるのは、こちらの僻目だろうか。



4日もお天道様マーク通りの日。ロッジから大河原峠までのドライブは1時間40分ほどの所要になり、9時半に歩き出した。双子山に登っていくにつれ、蓼科山が大きくなり、横岳が高く立派になっていく。行く手の遠く、横岳続きの稜線の向こうに南八ツの硫黄岳が特徴ある姿をのぞかせれば、爽やかな涼風とともに「今日もいい日だねぇ」と、すっかり嬉しくなってしまった。強い陽射しが首筋を焼くのも、これ以上はないという登山日和の感触だ。

わずかな林をぬけると、周囲遮るもののない双子山の頂稜に変わって、ますます蓼科山がこんもりしてきた。家人と顔を会わせ「この辺も久しぶりだ、また来る機会があってよかったねぇ」。麦草峠−雨池−双子池ヒュッテ(泊)−大河原峠−蓼科山を中野英次、寺田政晴のお二方と歩いたのも、すでに20年も前になって、双子池へ下りていく樹林にも懐かしさ一杯だった。

おゃ、もう小屋か。雄池雌池の間の一段高くに建つ双子池ヒュッテは、以前泊まったときよりも一回り大きくなったのではないかしら。10月半ばのしとしとするような日の夕刻、私たちが着いたときは、もっとこじんまりとアットホームな感じたった。今日の小屋はかんかん照りの陽射しの下で人がいるのかいないのか、しんと静まり返っていた。

山口耀久さんの「北八ッ日記」を見ると(『定本 北八ッ彷徨』平凡社/2001)、1959(昭34)年7月21日の項に、

夏の双子池はまったくひどいものだ。小屋から雄池にワイヤーをひいて バケツで水を汲みあげる仕掛けになっている。うわさに聞いたカマボコ兵舎も建っている。雌池には、これもアメリカ軍の払下げらしい、水上飛行機のフロートみたいな金属製のボートが浮かび、水泳パンツでパシャパシャ泳いでいるのがいる。

とあり、山口さんは「双子山の頂上でひっくり返って空を眺めていても、しばらくむしゃくしゃした気持がおさまらなかった」そうだが、それに較べると、いまのほうがよほどましである。帰って、あらためて「北八ッ日記」を読み、昔よりも今のほうがよいという例外的な現象ではないかと思った。

いかにも北八ッの、暗い樹林の尾根を越して亀甲池。家人は「前来たときはあふれるように水があって歩くのに苦労した」というが、私にはその記憶はない。今回の第一印象は「半ば干上がって、殺風景な水溜り」であり、長沢君も「亀甲なんて、どこにあるのでしょう」という。昼食の座の日陰を借りたにしろ、余り情緒のあるとはいえない岸辺だった。

今日の終章は、蓼科山を正面にしての天祥寺原への道、そしてその先の天祥寺原を大河原峠へと緩やかに登る道。「背あぶり坂」の、どちらもきつい陽射しに照りつけられる道だった。峠について、ほっと一息。自販機の冷たいジュースに目を細めたが、これがノンアルコールのビールであったらいうことなしなのに。

ところで、帰って2日ばかりたつと右の肩から首にかけて赤い斑点ができて腫れてきた。近所の皮膚科にいくと女医さんは「帯状疱疹」とのお見立てだ。「これを読んでください」とくれたパンフレットには、原因としていろいろあるなかに老化、疲労があげられていて、思い当たることばかりである。なるほどと納得した。

通算1800回目の山行には気色の悪いおまけが付き、やはり歳を考えなくてはと、これも自戒自戒。           

(2006.9)

※ 説明のついた写真は横山氏による。その他は長沢が撮った。(長沢)























入笠山に登りついたご機嫌な2人



















大河原峠のロッジ山旅主人・長沢洋さん





   今は静かな双子池・雌池




亀甲池から天祥寺原へ・蓼科山が正面

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