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横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠



三峰山






























































三峰山頂上にて
昨年(2005)の暮れに亡くなった山村正光さんを偲ぶ会が、約半年たった、この6月24日に日本山岳会の会員を主にしてロッジ山旅で催された。山村夫人ばかりでなく令嬢の聖さんの出席もあり、総勢20人ほどが山村さんの思い出を語って一夜を過ごした。

山村さんの日本山岳会入会はお歳33で、1960年の3月、会員番号は5062である。私の入会はそれよりも少し前になるが、時折、山岳会のルームなどでお顔を見ても「この甲府の山村さんという人、中央線の車掌をやっているそうだが、お酒大好きと聞くから、あまり近寄らないほうが無難だろう」と敬遠気味だった。挨拶をするにしても、あたらずさわらずの「こんちわ、よいお天気ですね」程度だった。親しく話をし、山へも一緒にいくようになったのは、1971年3月に深田久弥さんが亡くなったあとのことになる。

深田さんが茅ヶ岳で急逝されたとき、山村さんは藤島敏男、近藤恒雄さんほかとともに同行者の1人だった。茅ヶ岳は地元甲府近くの山ということで案内かたがたの同道だったが、深田さんが頂上のわずか下で倒れたときには救援を求めて山を駆け降り、お医者などを連れてまた登り返すなどの大活躍をした。このときの詳しくは、これまで山村さん自身が山岳雑誌などに何度か書いている。

また、藤島さんも、山上で深田さんを看取ったときの顛末を綴る「深田久弥氏のこと」(山岳会会報『山』311号)の一節に「同君(山村さんのこと)が同行されなかったならば、事後処理がかくも手際よく運ばれることは、到底望めなかった」と謝辞を述べるなどあって、その名は「甲府に山村あり」と広く知られるようになった。

その翌1972年の4月、深田さんの奥様の志げ子夫人が長男の森太郎さん夫妻とお孫さんを連れて一周忌の登山をなさった折、山村さんのほかに近藤信行さん一家、それに私と家人とを誘ってくださった。1泊2日の山行で、まず、深田さんが亡くなる前夜に過ごしたのと同じ能見荘に泊まってから茅ヶ岳に登ったのだが、私はこのときから山村さんと親しく話をし、一緒に山にも登るようになった。



木暮祭に出席するようになったのも、山村さんとよく知り合うようになってからである。そして、思い出はつきない。

73年5月の木暮祭の帰り、山村さんが昨日免許を取ったばかりという車に、神様を念じて乗せてもらったこともあった。97年6月の南アルプス前衛の雨乞岳では、山村さん運転の小型ジープに便乗して片側が断崖絶壁の林道を走ったが、尋常とはいいがたいスピードをだし、山村さんの車はいつ乗っても恐いと思った。「板子一枚下は地獄」というが、ジムニーの薄っぺらな幌の外はガードレールのない千尋の谷で、家人と二人顔を見合わせるほかはなかった。でも、山村さんの車に乗せてもらったからこそ、歩くとしたら結構な長丁場の雨乞岳に日帰りで登れたのだから贅沢はいえない。少しくらいの恐い思いは我慢、我慢。



さて、山村さんを偲ぶ会の翌日は、有志の何人かが和田峠と扉峠の間にある三峰山(1887.4m)に登った。長沢君の車でビーナスラインを走り1700mを超す天望台まであがってしまったのだから、あとは高が知れている。ほんの30分ほどで頂上についた。梅雨の季節、予報は悪かったがふらふらと天気はもち、高曇りの空の下に北アルプスの槍穂高付近がはっきりと見えていた。また、山頂から西に向かって二ツ山、鉢伏山へと続く尾根もよく見えて、私は三峰山に最初に登ったときのことを思い出した。

すでに10数年前のことになる。朝早い電車でたち下諏訪駅下車、和田峠まではタクシーを使った。そこから三峰山に登ったのち尾根伝いに二ツ山へいき、あとは南に踏跡の定かでない支尾根を樋橋に下った。樋橋では再びタクシーを呼んで下諏訪に戻った。三峰山と二ツ山の尾根は、いったん大きく下ってから登り返さなくてはならず、予想したよりもずっと時間がかかった。歩きでのある日帰り山行だったと覚えている。

いま、こうして三峰山から二ツ山に続く尾根を眺めても、あの時はよく歩いたと自分でも感心するばかり、この歳になってはとても日帰りでは無理だろうと思った。

その後の三峰山登山は、ロッジ山旅ができてからのことになる。2003年9月には今日と同じように長沢君の車を天望台にとめて、前回とは大違いのラクチンコースで登った。その日は、まず、八島湿原の駐車場から鷲ヶ峰に往復したあと、天気もよいし、これだけではもったいないという、ついで登山だった。



ご存知、山村さんの著書『車窓の山旅・中央線から見える山』が出たのは1985年2月。好評を得て、私の知る限りでも20回近くの刷り増しする大ベストセラーとなった。

三峰山は中央線の下諏訪辺りからよく見え、もちろん『車窓の山旅』にも取り上げられている。山村さんを偲ぶ会の翌日の、3度目の三峰山から帰って早々、私はあらためて『車窓の山旅』を開き、三峰山のくだりを読み返してみた。

それによると、山村さんは、以下のコースで三峰山を日帰りで登っている。

すなわち、松本から村井経由の高ボッチ高原行きのバスに乗り、そこから鉢伏山、二ツ山、三峰山の三山を稼いだのちに和田峠へおりた。峠からの下りはバスなりなんなりの乗物を使ったか、あるいは歩いたかは書いていないが、いくら6月の日の長い季節とはいえ、大変なロングコースである。松本から高ボッチ高原行きのバスがあったというからには、ずいぶん昔の話で、山村さんもまだまだ若かった頃だろう。それにしても、よく歩き通したものだと感心するほかはない。山村さんは幾つになってもスマートな体型だったから、若い頃は人一倍身が軽く、それこそ飛ぶように山を駆け歩いていたに違いない。

読み終えて、「うーん、さすが山村さんはたいしたものだった」と、私はもう1度山村さんを想い、懐かしく思った。

追記

1.『車窓の山旅』の奥付に載る著者自身の書く略歴を、参考のために以下に掲げておく。「昭和2年、山梨県生まれ。昭和15年、甲府中学入学、山岳部入部以来現在まで主として南アルプス全域に足跡を残す。日本山岳会会員。昭和20年12月、汽車にタダで乗れるからというのが唯一の理由で国鉄に入社。以来40年間、甲府車掌区に勤務。中央線の車掌として主に新宿−松本間を乗務しつづけ、昭和60年3月に退職。折角汽車にタダで乗れるから入った国鉄も、北は北海道、西は広島までしか行ったことがなく、東北・上越の両新幹線も乗ったことなし。物見遊山の金も暇もなかった。この40年間を支えてきたもの、それはただ、中央沿線の風光と車掌という仕事が好きだったから」。

2.山村さんは退職後、長く立川の朝日カルチャーセンターの登山教室の講師をやっていた。その生徒たちが山村先生の古希をお祝いして『山雷の古希』と題した小冊子を1997年11月に出版した。私も1部頂戴したが、山村さん自身も「少し前の事など」という特別寄稿を載せている。それによると、山村さんは戦時中、陸軍特別幹部候補生の第一期生として1944年4月に水戸陸軍航空通信学校長岡教育隊に入隊し、対空無線と方向探知器を専攻したという。終戦時の階級は伍長。後年、山を一緒に歩いたときにその時代の話を聞くと「通信士として新司令部偵察機に乗ったことがある」という。私は「えっ、アメリカの戦闘機も容易に追いつけない、あの高速の格好いい飛行機に乗ったことがあるの!」と驚き、やはり山村さんは徒物(ただもの)ではないと思った。    

3.添付のモノクロ写真は1972年4月、深田久弥さんの一周忌に茅ヶ岳に登山したときのもの。山村正光さんと頂上での記念写真。山頂の標柱の左が志げ子夫人とお孫さん。右から2番目が山村さん。
                                            (2006.7)




偲ぶ会での秀子夫人と娘の聖さん

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