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横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠

藤尾山(天狗棚山)


















田辺正道氏



















藤尾山に向かって
奥秩父主脈は甲州側の玄関口の1つ、犬切峠の南東わずか上にあるのが藤尾山、別に天狗棚山という山である。三角点もおかれて標高は1600mほど、周りから見るとひとかどの山容だ。一ノ瀬から二ノ瀬、三ノ瀬と続く好ましい山村風景も、この山があってこそといえるだろう。

ところが、実際に犬切峠から取り付いてみれば、下半分の防火線帯はともかく、上半分は密生した笹藪のなかに歩きにくい踏跡が通じるのみ。山頂も灌木と藪に埋もれて展望は皆無、登って楽しいとか面白いというような山ではない。大方の人が「1度登れは、もう結構」という部類に属する山で、登るにしても、ことのついでに寄り道しておけばよい程度のものである。

私も、1977年5月16日、その年初めに亡くなった田辺正道さんの墓参の折のついで登山だった。

  

正道さんは長く奥秩父、笠取小屋の番人をやっていた。戦争が終わって中国から帰ると、それほど間をおかずに小屋にあがるようになったらしい。1951(昭26)年の夏、私が笠取小屋に泊まったときには、すでに小屋にいて一国一城の主だった。このときが私の初めての奥秩父行で、雲取山荘から一日かけて笠取小屋へ歩き、翌日は雁坂峠に往復したあと笠取小屋にさらに1泊している。そして、最終日は正道さんに文明世界に出るには、これが一番早いと教えられて、落合から柳沢峠を越えて裂石(いまの大菩薩登山口)まで歩き、そこからバスに乗って塩山へ出た。

その後、2、3度顔を出すうちに、私はなんとなく正道さんとウマが合い、やがて、しばしば笠取小屋へ遊びにいくようになった。一ノ瀬にある正道さんの実家にも何度か泊めてもらっている。

正道さんは50を少し過ぎる頃から癌を病むようになった。塩山の病院で手術をして「土瓶くらいの出来ものが取れた」などといい、一時はだいぶよくなって小屋の建増しの荷運びをするまでになったが、結局は57歳で亡くなってしまった。

入院中、私は2、3度見舞いにいき、同じ奥多摩山岳会の秋山平三君と一緒のときももあった。亡くなったのは1977年の1月、お葬式はこごえるような寒い日で、私は奥多摩山岳会会長の本田武夫さんの車に乗せてもらったが、凍った一ノ瀬林道では車が横滑りしてとても恐かった。

そして、その年の5月。秋山君がお参りにいきましょうと車を出してくれ、墓参をすましてからの藤尾山登山となった。4ヶ月前の葬儀のときの冬景色とは大違いで、山も谷も新緑美しく、陽光さんさんの実に好い日だったと覚えている。

  

その後、29年たった今年2006年の6月8日、ロッジ山旅の週例山行は石保戸山(1672.8m)に決まり、私と家人は塩山駅で拾ってもらって日帰りで参加した。この山は犬切峠を起点にして藤尾山とは反対方向の高いほうへ尾根をたどっていけばよく、登り3時間たらずのわりに楽な行程である。稜線上には広く防火線が切り開かれて、眺めもよい。この日は、あいにくの曇り空だったが、梅雨入り間近とあれば、降らないだけでもよしとしよう。それでも明るい防火線の尾根をワラビを採り採りたどれば、皆さん、大満足であった。

同じ山梨のうちといっても、北杜市のロッジ山旅周辺に住む人にとっては少々遠い山だけに、目先が変わっていっそう楽しかったに違いない。長沢君の選山眼を称えよう。

車を犬切峠に置いてきたので、当然、往復登山になった。下山は向きを正反対に変えて犬切峠へ高度をさげていくと、正面には藤尾山が今日のおまけ登山に丁度よい大きさに見えてきた。まだ、時間も充分ある。私は、この際、もう一度ついで登山をやってもよいよう気がしてきた。「どう、長沢さん、あの山は峠から30分もあれば充分だよ」。

幸い、長沢君も「まぁ、登ってみますか」とのご返事だ。峠の車に余分な荷をおき身軽になって登りだした。前半は防火線の尾根をやはりワラビを採りながら登り、後半は笹藪を分ける尾根伝いだった。簡単に見えた山もこの辺りはだらだらと長くて、ぼやく人もいないではなかった。

いったん下って登って、やっと頂上につけば、前と少しも変わらない藪のなかのごく狭い、なんの魅力もないところだった。皆さん、「なんでこんな山にわざわざ登らされたのか」といった面持ちで、いいだしっぺとしては、まことに申しわけない。でも、「藤尾山なんて、こんな機会でもなければ登らずに終わってしまう山なんですよ」。

それに私にとっては、正道さんを偲ぶよすがにもなる山である。帰ったら秋山君に「29年前、君と同行した墓参以来の藤尾山に登ってきました」と手紙を書こうと思った。    

追記

1.実際には犬切峠から藤尾山の登りは45分ほどかかった。下りは30分程度。

2.今回、犬切峠から石保戸山へ登る途中のほぼ半分のところ、ほとんど 尾根に接するようにして南から幅広い車道がカーブしながら近づいてくるのを見て驚いた。これは犬切峠のわずか南から始まる「林道大ダル線」の続きで、まだ工事中。後日、正道さんの長男で笠取小屋を継ぐ静君にたずねると、いずれは青梅街道の落合から柳沢峠へ登る途中の板橋付近に出るということだ。

3.添付の写真説明。正道さんは1972年5月の撮影。ほかは1977年5月に墓参を兼ねて藤尾山に登ったときのもの。秋山君が詣でる墓標に書かれた正道さんの戒名は「千峰院観山正道居士」。「山の家」と看板のある藁葺き家は一ノ瀬の正道さんの実家。その後、今様に建て直された。
































藤尾山77.5


藤尾山06.6

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