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            横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠

                硫黄岳(白黒写真は横山撮影・クリックで拡大)

先月、6月の24、25日の2日間、島田基子さん、五十嵐雅子さんのお二人が長沢君を先達にして南八ツの硫黄岳に登るというのに誘われた。桜平の登山口から夏沢鉱泉‐オーレン小屋‐赤岩ノ頭‐硫黄岳と登って硫黄岳山荘に泊まり、翌日は硫黄岳に登り返したのちに夏沢峠にくだって桜平に戻るという一巡コースである。幸い、梅雨の季節にもかかわらず満足する眺めも得られたし、花も多く楽しい山歩きになった。もし、皆さんから声をかけられなかったら、いまさら硫黄岳へ登ることもなかったろう、誘われたからこそで、とてもありがたく思った。

それにしても43年ぶりの硫黄岳であり、記憶に残る硫黄岳とはなにもかもが異なっていて、まったくの浦島太郎、ことに硫黄岳山荘の完全作動のウォッシュレットには仰天した。この2日間の山行で、あらためて「世の中変った」と思い知らされたのが、まず、山小屋で快適なおもいをした機能万端のウォッシュレットであり、登山道の両側にはりめぐらされた踏み込み禁止のロープだった。

いま43年ぶりといったが、それ以前、1954年7月に夏沢峠‐硫黄岳‐横岳‐赤岳‐権現岳と歩いた最初の八ヶ岳登山から数えると、それまでの間に7回ばかり硫黄岳に登っている。



かつて都岳連の会長を務めた山本久子(当時はまだ結婚前の鈴木姓だった)さん、また、たまたま赤岳鉱泉で出会った中村謙さんとも登ってもいるし、新婚旅行でも登っていて、なにかと思い出の残るのが、この硫黄岳だ。



中村さんと出会ったときは、先年亡くなった秋山平三君と一緒で、硫黄岳の上で中村さんと別れてからは夏沢峠‐天狗岳‐高見石‐麦草峠‐雨池‐雨池峠‐城ノ平と歩いた。




当時は、まだピラタスのロープウェイなどなく、いま縞枯山荘のある辺りが静かな、草紅葉のきれいな草原だったのをよく覚えている。

奥多摩山岳会にいた頃は、その冬山合宿、春山合宿などでも登っている。1969年5月の春山合宿では行者小屋にテントを張って阿弥陀岳、赤岳に登り、合宿が終わったあと私たち夫婦と鈴木孝司さんの3人で硫黄岳‐夏沢峠‐天狗岳‐高見石まで足を延ばした。このときは高見石を越したところで、よい天気なのを幸いにハイマツの中にもぐりこんで一夜を明かしたと覚えている。


そして、それから今回の硫黄岳までが40余年の間があいた勘定になるが、こちら2人もその長年月相応に歳をとり、けっこうくたびれた。桜平からなら標高差は850メートルほどしかない。往復ならば、いや夏沢峠をまわったにしても、日帰りでも充分歩いてこられる行程だろう。長沢君の木曜山行でも日帰りで登っている。若い頃ならば、なんということもない標高差である。ところが、こちらは「もう日帰りなんかとても無理だ。上で泊まるにしろ、このくらいが限界だね」と家人と顔を見合わせるまでになった。思うに奥多摩の鴨沢から雲取山山頂までの標高差は1500メートルもあって、このぶんでは、もう雲取山に登るのは無理だろうと大変寂しい。

なお、硫黄岳山荘の少し手前で美しいイワカガミを見つけ、それを写そうとかがんだ途端に足が攣って痛いのなんのって。足が攣るのは太ももやらふくらはぎの筋肉の限界を知らせる信号で、その夜は寝ていても両太ももが交互に攣ってずいぶん痛い思いをした。


そして、こんなときにいつも思い出すのは、川崎精雄さんの強さである。1991年の夏、ほかに山田哲郎さん、浜野安生さんと北海道へ行き、トムラウシ温泉からトムラウシに往復したとき、川崎さんは84歳の高齢だったが、11時間たっぷりの行程でも、それほど疲れたお顔はなさらなかった。川崎さんは、なにしろ強かった。私は、あと、トムラウシの川崎さんの歳まで5年はあるにしても、「とても、ああはいかない」というしかない。

今回は梅雨の最中で、長沢君はお天気を見定めるのに大変だったらしいが、赤岩ノ頭に登りつけば、シースルーの霧が赤岳や阿弥陀岳を濃淡に見せて効果抜群、これが見えなくてはという南八ツ雄峰の絶景を満喫できて目出度し目出度し。硫黄岳山荘では生ビールのジョッキを前にした島田さん、五十嵐さん、それに長沢君はにこにこと嬉しそうだった。こちら下戸の2人も舶来のポテトチップのお相伴にあずかって、満足の一言に尽きた。

補 記

中村謙(1897〜1979) 

慶応義塾普通部、東京外国語学校卒。商社勤務をへて教職につく。登山は中学生の頃から始め、日本山岳会会員(会員番号1610)であるほかに山小屋倶楽部、山と高原の会などに関係。若い頃から膨大な数の山の文章を書き、専門の『解り易き和文英訳新解』『英語のいろはから』のほかに山に関しても『東京附近山の旅』『山と高原の旅』『国防登山読本』など、これまた多くの単行本を出版した。一時、山の出版社として知られる朋文堂に関係したことがあり、私はその頃に中村さんと知合うようになった。穏やかな、問えばなんでも親切に教えてくださる方だった。1981年に『山ひとすじ』という遺稿と追悼の文集が茗溪堂から出版されている。それにしても、亡くなってから今年で30年以上がたち、中村さんをご存知の方もずいぶん少なくなっていることだろう。一時代、東京近くの山に登って中村さんの名を知らないのは「もぐり」というほどに知名の人だったのにと思いながら、この文章を記した。

川崎精雄(1907〜2008)

中央大学卒。長く金融畑の仕事につく。山は大学山岳部を経て日本山岳会に入会(会員番号3034)、後年名誉会員。ほかに日本登高会、南会津山の会などの会員としても活躍した。味わい深い紀行文や随筆を書き、「斗城」の俳号をもつ優れた俳人でもあった。日本山岳会の副会長を務めた望月達夫さん(1914〜2002)と多くの山行をともにし、私はその望月さんを介して1974年5月の菰釣山以降60回余の山行に同行するようになった。前にも記したが、なにしろ川崎さんは強かったというのが第一の思い出だし、若い頃に積雪期の上越や南会津の山々で開拓的な登山をしてきただけに、歳をとっても大抵の悪場には驚かなかった。著書は『雪山・藪山』『山を見る日』、共著の『静かなる山』『続 静かなる山』、さらには『いろりばた』が茗溪堂から出版され、のちに『藪山・雪山』『山を見る日』の2冊は中公文庫にもなった。句集『冬木群』がやはり茗溪堂から私家版として出ている。なお、日本山岳会の『山岳』第百三年に載る川崎さんの追悼文はでたらめだ。没年が2007年と違い、亡くなった月日が8月14日なのに8月18日になっている。著書名も『山を見る目』『静かな山』などといい加減である。ほかにも種々あって、こんな追悼文などあるものか。いまも折につけて懐しみ、かつ敬愛する川崎さんのためにも、私は憤懣やるかたない。(2012.7)                                              

                                       2012.6月の硫黄岳のアルバムはこちら  

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