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横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠

二つの大門峠























現在の大門峠


















虫倉山










殿上山の斜面


2005.7
田中冬二の大門峠

田中冬二(1894〜1980)には「大門峠の見える村」という詩があって、

  山々はよく晴れてゐた
  峠もよく見えた
  小梨の花のさかりで郭公がないてゐた
  麓の村は柿若葉あかるく あやめの花がさいてゐた
  めずらしく村へ魚売りが来た
  魚は青い鯖
  笊にその魚を大切に入れていそいそかへる人たちに
  うしろから魚売りは叫んだ
  −−塩をかけろや
  −−味噌をつけろや
  峠の方から谺してくる程の大声で
  晩春の日は長かつた

いい詩だなぁ、大門峠っていうのは、いいところらしいなぁ。越えてみたいな。

長いあいだ、そう想い続けてきた。ところが先年、確か霧ヶ峰の帰りだったか、ロッジ山旅のオーナー長沢君の車で白樺湖の脇を走りぬけたとき、彼が「ここがそうですよ」と教えてくれたのは、ケバケバしいリゾート施設の蝟集する俗悪極まりないところだった。車窓からちらりと目にした「大門峠」と大書する標柱もかえって癪の種でしかなく、百年の恋も一瞬にして覚めた。これでは晩春の日も郭公も、塩や味噌をまぶす青い鯖もあったものではないだろう。

それまでは溜池程度だったものが白樺湖に作りなおされたのが昭和21年、蓼科有料道路が開通したのが同35年で、以後、この付近のリゾート化が一気呵成に進んだというが、田中冬二が今日のこの有り様を見たら、なんというだろうか。彼は昭和55年まで存命していたのだから、大門峠周辺のその後の変り様を実際にその目で見ているかも知れない。もし、そうだとしたら、おそらく、なんというかどころではなく、唯々絶句するだけではなかったか。昔を知らない私にしたところで、「これはひどい」の一言しかでてこないのである。

と、大門峠そのものには失望したが、その向うには私の大好きな山があって、それらの山々に登るべく峠を北にくだっていくときには嬉しさ一杯だ。すなわち高松山(1667・6m、別に小日向山とも)や虫倉山(1658・8m)であり、また、霧ヶ峰をそちらの山彦谷側から登るのもなかなかのものである。北ノ耳、南ノ耳と一巡コースをたどれば、一日の楽しい高原散策になる。



高松山は、一昨年(2004)7月以来、3度登っている。最初は寺田君の車に乗せてもらい、東京からの日帰りでいった。星糞峠へ入る林道の別れに車をとめ、30分ほどその林道を歩いた星糞峠から往復した。

次回はその年の12月初めに長沢君といっしょに出かけ、高松山ばかりでなく虫倉山にも登ってみた。高松山は道が有るような無いようで、若干のルート・ファインディングを必要とするが、虫倉山のほうには小道が通じていた。ただし、虫倉山の頂上では石社を見たものの、三角点はいくら探しても見つからなかった。山頂一帯は林に包まれて展望皆無、眺めは途中の草原の辺りで得られた。

高松山と虫倉山は星糞峠をはさんで向き合う、どちらも同じような高さと姿形の山だが、高松山のほうがずっと私好みである。なんといっても上半分のおおらかに開ける笹原の尾根筋がいい。その辺りを、寺田君は「映画『サウンド・オブ・ミュージック』の終わりのほうで、ジュリー・アンドリュースが両手を大きく広げて歌う場面そのもの」といったが、言いえて妙、視界も大きく開けて、北アルプスの眺めも大変よろしい。

この先も繰り返して登りたい山であり、何度登っても飽きることはないだろう。



霧ヶ峰もよいけど、人が多くて少々辟易気味。しかし、ガイドブック定番の八島湿原−物見岩−蝶々深山よりも一回り外側の男女倉山、山彦谷の北ノ耳、南ノ耳を巡って歩けば、それほどの人に出会うこともなく、ご機嫌だ。

昨年(2005)の7月初め、霧ヶ峰のニッコウキスゲは実に見事だった。「30年間、この時期の霧ヶ峰を知っているけど、これほど花の多い年は初めだという人もいます。今回は大門峠を越した北側の鷹山スキー場から北ノ耳へ登るコースを歩いてみましょう」と長沢君に誘われていくと、なるほど、高原はニッコウキスゲの鮮やかな黄色でだんだら模様に染められていた。この日はスキー場の上に車をおき、大笹峰−北ノ耳−南ノ耳−車山の肩から下るという一巡コースを歩いて堪能した。次回は澄んだ空の下、展望抜群の秋の日に歩いてみたいものである。

大島亮吉と望月達夫の大門峠

私の知る限りでは、ロッジ山旅からそれほど遠くないところ、つまり信州の川上村と南相木村との間に、大門峠と名のつく峠が、もう一つある。

千曲川の右岸、男山、天狗山、御陵山、蟻ヶ峰、三国山と続く村界尾根上の、御陵山の東1キロばかりのところだ。いま、私の使っている2万5千図「居倉」(昭和51年2月発行、ただし昭和63年12月発行の5万図『金峰山』には記入がある)には大門峠の記入はないが、かつては大島亮吉も越え、なかなか風情のある峠だったと書き残している。

彼の紀行文「小倉山」(『山岳』第20年第1号/大15・7)によると、それは大正15(1926)年4月から5月にかけてのこと。秩父の小鹿野を振り出しに、日向大谷−両神山−十一町峠−志賀坂峠−オバンド峠−ハリマ峠−楢原−栂峠−小倉山(御座山)−鳥居峠−大門峠−梓山−十文字峠−栃本/秩父、と歩き、紀行文の終わりを次のように結んで、大門峠を云々している。

栂峠、上栗尾三川の部落を繋ぐ三川峠又は栗尾坂、三川より千曲川の谿に越す「ダイモン」峠、馬越峠の如きは敢えて記するに足らざるものなれど、山間の部落間を繋ぐ小なる峠路として又一種の興賞あり。殊に「ダイモン」峠に於いて然り。三川と居倉を繋ぎ、通行者も余りなき此の小峠の細路は草原に石塊の散在する緩傾斜面より黒木の蔽える岩骨露わなる山稜の一凹部の恰も自然の門の如き箇所をかそけくも越え居れり。

また、望月達夫さんも昭和13年秋にこの峠を越え、「峠の南側は地図で想像するより遥に広々とした草原で、晴れてゐたら寝こんで青天井でも眺めてゐたい処です」と好印象を得たことが、後年の「不遇な山−小川山−」(『折々の山』茗溪堂/1980)という紀行文の中で語られている。

望月さんが藤島敏男さん、村尾金二さんと奥秩父の小川山へ登ったのは昭和49年9月のことであり、韮崎−増富−金山−富士見小屋(泊)−小川山と歩く山旅だった。

二日目に小川山から川上村の居倉へ下りたあと、望月さんはその日のうちに帰るといって信濃川上駅へ急いだが、まだ日数に余裕のある藤島さんと村尾さんは梓山の白木屋旅館に泊まり、明日もう一日、どこかを歩くということになった。そこで別れ際に望月さんがお二方にすすめたのが大門峠だった。「不遇な山−小川山−」には、その辺のいきさつが前掲の大島亮吉の文章を引きながら、以下のように記されている。

ところで、わたしは梓山に泊まった両氏に、大門峠を越えてみることをおすすめした。三十年程前に越えたときの印象が、いまだに忘れられなかったからである。しかし、両氏が帰京して報じられたのは、尾根まではどうにか辿りついたが、三川側の路は藪がひどくてどうしても見出し得なかったということだった。すぐ近くの馬越峠を車が通る時代となっては、徒歩で越えるような大門峠の利用価値がなくなったのも不思議はない。しかし、巨岩が門柱のように二本立っていて、大島亮吉氏も「この小峠の細路は恰も自然の門の如き個所をかそけくも越え居れり」と書いている、あのささやかな峠の路が、遂に廃道と化したときくのは、わたしにとって矢張り寂しいことなのである。

こちらの大門峠も、よさそうだなと私は想う。

ただし、望月さんが書くところでは、昭和40年当時、すでに峠から三川側に下りる道は、藤島さん、村尾さんがいくら探しても判らなかったとあるから、いまとなっては、その反対側の川上村から登る道もとうに消えているだろう。しかし、門柱よろしく巨石が2本立ち、自然の門のようなという、その峠の跡だけでも、やはりこの目で見てみたいではないか。

ところが、である。地形図を開いてみると、いまでは峠の南下、川上村の滝ノ口沢が入り込んでいる辺りが、なんとゴルフ場となりはてているではないか。これで私の想いは七割がた覚め、さらに長沢君の「ただ今、峠越えの車道工事中」という一言で止めをさされた。

だが、今の世の中、ただ昔を想うばかりでは、どうにもならない。逆に居直って、車道開通大歓迎、完成の暁には峠越えのドライブを存分に楽しむのもよいだろう。車窓からは奥秩父の山並みにしろ御座山にしろよく見えるに相違ない。その節はよろしくと、いまから長沢君に予約しておこう。

(2006・1)






















































高松山













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