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            横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠

                   湯ノ丸山         


最初に湯ノ丸山に登ったのは、今から36年前の1975年、走り梅雨の季節だった。望月達夫さんと同行している。1泊2日の山行で、「君、初日は水ノ塔、籠ノ登に登ってから地蔵峠で泊まり、次の日に湯ノ丸、烏帽子に行こうよ」と、本命が湯ノ丸山、烏帽子岳にしろ、おまけたっぷりのいかにも望月さんらしい計画だった。

そのときの記録を見ると、以下のようになっている。

初日の5月31日は急行「妙高1号」で小諸へ行き、タクシーで車坂峠へあがったのち水ノ塔、籠ノ登に登ったが、籠ノ登の下りから雨に降られている。車坂峠を歩き出したのが10時、地蔵峠に下りついたのは2時40分で、見まわしたところ「あれしかなさそうだ」という「ぎんれい荘」に飛び込みで泊まった。スキー客相手のヒュッテというか旅館というか中途半端な宿だったが、「まぁ、こんなものだね」と、食べて寝られれば満足の3人だった。ちなみに2食付2800円、当時は宿ばかりではなくタクシーも安かった。タクシーは3600円の三等分でお一人1200円、バス代とそうは変わらなかったと思う。

翌6月1日は天気も幾らかは持ち直し、朝のうちはまずまずの空模様だった。8時の出発で、まずスキー場の幅広く刈り取られた斜面を登っていくと、右手のほうから「ファイト、ファイト」の黄色い掛け声が聞こえてきた。どこやらの女子大ワンダーフォーゲルらしく、そんな突拍子もない気勢に驚くやら呆れるやら。ことに望月さんは「当節の山登りはえらく変わったものだ」と、今も、その慨嘆節が耳に残る。

湯ノ丸山では少し北に外れた四等三角点峰に往復した。

                                      
                     
望月達夫さん同道の湯ノ丸山 1975年6月1日

遠望はだめだが、この日は一応の眺めがきいた。これからの烏帽子岳はすぐ向こうに見えるものの、間には250メートル下って200メートル登らなくてはならない鞍部がある。これはきついぞと覚悟したが、烏帽子岳までも1時間少々しかかからなかった。なにしろ望月さんが並大抵の速さではなかったのである。

この年、望月さんはお歳61、まだまだ若かった。それにせっかちな性分ときては、歩く速さも並ではない。ゲートル巻きの少々ガニマタ、いつもちょこちょこと先頭を切り、休んだと思ったら、すぐに歩きだす。長年の山仲間の川崎精雄さんさえ「望月君はもっとゆっくり歩けばよいのに」と、ときに不満をもらすほどだった。

烏帽子岳には10時55分着、20分ばかり休んだ。この頃から雲行きが怪しくなり、雨粒が落ちてくるようになった。裸の尾根から林に入って、これ幸い。一時は相当激しく降って、木の下に身をよせての雨宿りをした。 

2万5千図は地蔵峠の「嬬恋田代」から「真田」「上田」と移って、殿城口のバス停留所が2時25分、3時8分のバスに乗り上田にでて帰った。

以上が、私たち二人の初めての湯ノ丸山。おそらく望月さんにしても水ノ塔山、籠ノ登山はいざ知らず、湯ノ丸山や烏帽子岳にはそれまで登ったことがなかったに違いない。望月さんは、1つの山に繰り返し登るよりは、なるべくならばいつも新規の、そしてより多くの山を知りたいという山選びだった。こちらが「これこれの山に行きませんか」と誘っても、「そんな山はもう登った」とにべもない場合もしばしばだったし、「望月さんは、もう奥多摩や奥秩父の山なんか棒で触るのも嫌なんでしょう」といえば、当らずといえども遠からずのお顔をしていた。



2度目は、その後16年、今からだとちょうど20年前の1991年の7月、濱野安生さんの車に乗せてもらって行った。梅雨明け早々のよく晴れた日で、車を地蔵峠において湯ノ丸山、烏帽子岳に登ったあと、その鞍部からの巻き道を峠に戻って帰った。初回、望月さんと登ったときは、まだモノクロフィルムの時代だったが、もう、このときにはポジのカラーフィルムを使うようになっていて、今それらの駒を見ていけば、青空いっぱい、緑鮮やかな湯ノ丸山、烏帽子岳である。ただし、遠望の山々は沸きあがる雲のなか、イマイチ不満が残った。



さて、3度目の湯ノ丸山は、先の9月29日、ロッジ山旅定例木曜山行に参加しての登山になった。この日はとびきりの日本晴れ、その山頂では日本中央部の山すべてが見える大眼福に預かることができて、長沢さん、どうもありがとう。これも長沢さんが日ごろ功徳を積んでいる賜物だろうし、さらには同行諸兄姉のご精進のよさにも感謝々々。
 
付け加えれば、この前日28日もよいお天気だった。10時に韮崎に迎えに来てもらい、甘利山、奥甘利山と歩いたのだが、ここでも見えるべき山は、みな見える大展望だった。たいした距離でもないからとぶらりぶらりの山上散策もよいものだし、「あぁ、ここから眺めるほとんどの山には登ったねぇ」とは、自分でも得意のセリフでなくてなんであろう。ただし家人が付け加えて、「わたしは富士山にも登っているわよ」と、耳の痛いことを一言。

山を下っては、中村好至恵さんの「山の絵」展を見に日野春のアルプ美術館へ寄った。鈴木伸介さんと会うのも久しぶりで、しばしの歓談が楽しかった。辞してロッジへの道々、空を見上げれば朝方よりも大気の透明度は一段と増したようだ。鳳凰三山や甲斐駒、八ヶ岳も尾根の1本1本をくっきりと見せて、「このぶんでは、明日もよく晴れる」と嬉しかった。


そして、翌29日は輪をかけた上天気。地蔵峠からは、うん、あの時の「ファイト、ファイト」はここいら辺、黄色い掛け声の女子大生も今はいい歳のおばさんだろうと俗念にふけりつつ登っていけば、早くも遠く近くの山また山が見えだした。「あれは日光の男体山ではないかしら。そうすると、その左のは赤城山」「中山峠をはさんで子持山、小野子山」「奥秩父主脈の果てをたどっていけば、赤久縄山から西御荷鉾、東御荷鉾山と続いて……」と指差しながらきりがなかった。

一足先の山頂からは「北アルプスがすごい、頚城も見える!!」の歓声が聞こえてきた。富士山から頚城の山塊、果ては雨飾かという山まで見えて、皆、しばらくは山座同定の時を過ごした。長沢君のいう「ここに藤本(一美)さんがいれば、いうことなしなんだがなぁ」にはまったく同感で、オーソリティの確たる同定をあおぎたい遠望の山も幾つかあった。藤本さんならば「あぁ、あれですか。あれは雨飾山に間違いありませんよ]と造作もなく、どの山もすべて快刀乱麻の同定に違いない。



目の下、烏帽子岳との間の鞍部へは、ゴロタのいやな下りだった。一歩一歩ストックに頼りながらの、われながら情けないへっぴり腰。座頭市だって、もっとましな歩き方をするだろう。小1時間もかかった。そして、家人はこの下りがこたえて、「今日はもういい、烏帽子はやめる。鞍部からは巻き道を先に地蔵峠へ戻っている」といいだした。まぁ、それもいいでしょう、みなさんが烏帽子を往復している間、ゆっくり昼飯にし、あとはぶらぶら峠へいけばよい。なにしろ、お歳ですからね。

なお、帰って望月さんと歩いたときの記録をみたら、なんと、この下りには20分しかかってない。やはり、あの頃は渾名「機関車」の望月さんにひかれて、こちらも速かったのだ。「歳をとると、だらしなくなるもの」と身にしみた。

地蔵峠に戻ったのが、かれこれ1時40分。ソフトアイスをなめながら、皆さんの到着をまった。

見回せば、峠のあれこれもずいぶん変わったようだ。こんな大きな茶店やホテルまがいの建物なんて、なかったと思う。快適な公衆トイレも近年のものだろう。思い出の「ぎんれい荘」はどこかと探せば、わずか北に離れたところにあったが、なんとなく凋落の模様だ。ソフトアイスやラーメンの立て看板が見えて店はやっているようだが、軒下に大きい「ぎんれい荘」の ん が落ちて「ぎ れい荘」になってる。 あれからの長年月のうちには、この峠でも栄枯盛衰、たぶん「ぎ れい荘」は枯と衰のほうだろうと思った。   (2011.10)                     
      


 湯ノ丸山と烏帽子岳の鞍部にて 左から木村久男、富田雄一郎、横山厚夫、橋本晨宏、横山康子、橋本博子、太田浩子の諸氏  長沢撮影

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