山から電話をするべからず   長沢洋


 8月26日、泉さん、國見さんと韮崎駅で落ち合い、櫛形山へ向かった。

 この夏の猛暑を束の間でも忘れたいわけだから、山歩きをするにも、歩き出しから標高の高いところに行かねばならない。池の茶屋林道終点の登山口ならすでに標高1850m、よもや暑いこともあるまい。
 
 ところが駐車場手前1キロあまりの場所で舗装工事中の通行止、そこから歩かされることになった。半身が不自由な泉さんにとっては1キロといえども大変である。
 
 仮設の駐車場には1台の車もなかった。もう昼近いのだから、今日はここから登った人はいなかったらしい。アヤメが咲かなくなって櫛形山は人気も凋落したということか。まあ、こちらとしてはアヤメが多いよりは人の少ないほうがよほどありがたい。
 
 この林道が未舗装なのを見るのもこれが最後かと思えば、いい記念にもなる。カモシカに遭遇したり、あれこれ話しながら歩いて、さほどのこともなく林道終点に着き、山道へと入った。
 
 尾根に出たところで遅い昼食をとったのち、また登り始める。ひとしきりの急坂が終わったところにある枝ぶりのいいダケカンバは以前のままだが、周辺にあった多くの種類の花たちはどこへ行ったのか、あたりはマルバダケブキの黄色の花ばかりである。櫛形山はいまや鹿の食わないこの草に席捲されているらしい。
 
 三角点まで来て、ここで終わりにしようかとも話し合ったが、結局奥仙重まで足を延ばそうとなった。
 
 東側に切り明けがある場所ではうっすらと富士山が望めるが、森に入ると霧がかかっていかにも櫛形山らしい深山の気が漂う。
 
 たどり着いた誰もいない奥仙重、林立した標識が目障りだが、森の雰囲気はすばらしい。コーヒーをいれてしばし休憩した。


 まがりなりにもひとつの山頂を踏み、いい気分で下山する。その途中、こんな山奥なのにケータイの受信状態がまるで街にいるかのように良好なのをいいことに、横山さんに暑中お見舞いの電話をしてみようとなった。もちろんお見舞いの名を借りた嫌がらせなのは言うまでもない。

 國見さんと泉さん、電話を代わりながら「東京は今日も暑いですか。ここは涼しくて気持ちいいですよお」。
 
 ああ、これがその後の天誅を生むことをこのとき我々は知る由もない。
 

 駐車場に帰り着いたときはすでに薄暮であった。これから帰ったのでは夕食が遅くなるなあと思いながら車を出発させ、ものの数百メーターも走っただろうか。突然ガタンという音とともに衝撃を感じた。そして何かを引きずるような音が車の下でする。
 
 路面の悪い未舗装路を走っていて、スペアタイヤを固定している金具がはずれて同様な音がしたことが何度かあった。今度もそれだろう、きちんと固定したはずなのにまたかと舌打ちして車を降り、後にまわった。
 
 おや、そこは何ともない。いったいどういうことかと車の下をのぞくと、なんと後輪のサスペンションを固定する金具が地面に落っこちているではないか。ボディ側の金具が腐食して崩壊し、支えを失ったのである。これではもう自走不能である。
 
 さてどうしたものかと考え、車検を受けてさほどたっていないことを思い出し、その業者に電話をした。いったいどこを見ているのだと最初から居丈高に文句を言う。業者はキャリアカーで駆けつけると低姿勢である。
 
 よりによってとんでもないところで故障してしまったものだが、どうも横山さんに電話したのがまずかったというのが我々の結論であった。天罰が下ったのである。しかし山奥にもかかわらずケータイが通じたのが今度は幸いしたのである。
  
 こうなったらじたばたしても仕方ない。八ヶ岳の麓からやってくるには2時間はかかるだろう。しかしそこは百戦錬磨のおふたりである。慌てず騒がず、暮れ行く空を眺めながら、のんきなものである。星に詳しい國見さんが、空が暗くなるにしたがって次々に現れる星を解説してくれ、納涼天体観測となった。

 はるか下に聞こえるエンジン音がしだいに大きくなり、やがてキャリアカーが車を積んで現れた。積んできた車を降ろして私たちが乗り込み、あとは頼むぞとさっさと下る。代車としてやってきた黒いワゴン車は、3人で乗るには故障した無用に大きい10人乗りのワンボックスよりよほど快適である。
 

 結局、ロッジに帰り着いたのは9時をかなり過ぎてからだった。


 
 さて翌日も好天である。小諸の高峯山が頭に浮かんだのは、登山口の標高が高く、しかも登りやすそうな山であることもさることながら、車坂峠まで長距離をドライブするのに快適な車が手に入ったからでもあった。この車があるうちにいろいろと遊ばせてもらおうというわけだ。
 
 櫛形山よりはるかに多い花を見ながらスキー場の中を登る。稜線に出るのに少々苦労したが、出てしまえば、いい道が続いていた。 昼過ぎに登頂してお昼を食べたあと、登山口へ残り半分といったところまで下ったころ、北の方角から雨が迫ってきた。まだ降ってはいないが盛大な雨音がする。
 
 ついに来やがったかとザックカバーをつけるかつけないかのうちに大粒の雨が頭にあたった。あっという間に登山道は川のようになり、近くで雷鳴がとどろく。
 
 傘をさすわけにいかない泉さんは一瞬でずぶ濡れである。しかし傘など気休めくらいの役にしか立たない土砂降りである。雷鳴におののきながらほうほうの体で登山口にたどり着くと、皮肉なことに雨がぴたりとやんで、青空までのぞいている。
 
 まさか横山さんも我々が高峯山に来ているとは気づくまい、電話をするとまたひどい目にあうから今日は静かにしていようねと話し合っていたのだが、どこで察知したのか、またこの仕打ちである。
 
 くわばら、くわばら、触らぬ神にたたりなし。山から電話なんぞするものじゃありませんね。

   



ご一行がもう1泊だったのが幸いであった。あのずぶ濡れのままでは帰れたものではない。翌朝、ロッジのベランダにはおふたりの干し物が並んだのであった。