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              横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠                     
 
大菩薩・沼ノ窪  大菩薩館の思い出 

                                               
大菩薩山中、沼ノ窪(ヌマノクボ)は、上日川峠から10分ばかり日川の谷に下ったところの小平地をいうのだが、かつて、ここには大菩薩館と称する山小屋があった。いや、山小屋というよりは、沸かし湯ながら、一般客相手の湯治場といったほうがよい旅館風の建物だった。出来たのは勝縁荘と同じ昭和7(1932)年ではないかと思う。というのも、松井幹雄が霧の旅会の会誌『霧の旅』第14年第40号(昭和7年11月発行)に載せた「大菩薩近感」を読むと、10月23日の大菩薩山行のこととして、以下のように書いているからである。(注1)

「(上日川峠の)指導標によるとこの下の沼のクボに大菩薩館と言ふ鉱泉宿があると言ふので、下りて見る。砥山峠から石丸峠への路が出会つたところに相当大きな山小舎がある。然しひどい建物だ。」

いまから80年近くも前、どういう意味で松井さんが「ひどい建物だ」といったかは知る由もないが、昭和20年代の終わり、私が定宿にするようになってからは、けっして「ひどい建物」ではなく、並みの山小屋よりは格段に泊まり心地がよかった。畳敷き・押入れ付の和室が2,3部屋、仕切りは襖と障子、廊下があって、トイレも街中の家と少しも変わりなかった。食事も頼めた。ここに載せた写真をご覧になれば、これは、いわゆる山小屋ではないと納得していただけるだろう。

私が最初に大菩薩にいったのは昭和28(1953)年5月で、このときは夜行日帰りの山行だった。早朝の塩山からバスで裂石(現在の大菩薩登山口、注2)へいき、上日川峠、唐松尾根、雷岩と歩き、大菩薩峠からは多摩川べりの丹波へ下った。

いまでもはっきりと目に残るのが唐松尾根から振り返ってみる富士のすばらしさで、五月晴れの青空の中に残雪輝く美しさには大感激だった。

私は、これですっかり大菩薩にとりつかれ、さっそくその年の11月に大菩薩館に泊まり、小金沢の尾根を歩いた。当時、大菩薩館にいたのは志村恵男という40がらみのおじさんだった。志村さんは、その後3年ほどのうちに亡くなってしまうが、私は短い間にしろずいぶん親しくなり、大菩薩の思い出のなかでは第一に登場する懐かしい人である。 

さて、これは3年前の2007年11月のこと。私たち夫婦は長沢君の木曜定例山行に加わって大菩薩を歩いた。上日川峠を振出しに唐松尾根を登り、雷岩、大菩薩峠、熊沢山、石丸峠とたどった後、小屋平から下って驚いたのは、なんと、大菩薩館が一山の廃材と成り果てていることだっだ。「えっ、これが大菩薩館!!」、思わず声をあげた。周囲の景色も様変わりしていた。建物のまわりはもっと広かったと記憶に残るが、いまのここはせせこましい平地にすぎないではないか。

長沢君は「時代とともに変わった山をいうならば、この大菩薩南面が一番でしょう」というが、それにしても、この変わりようは、一体なんだといいたい。大菩薩館の名を想う片鱗だにありはしない大菩薩館跡だった。

しかし、ここで知り合った人のことは、鮮明というほどではないにしろ、折につけて蘇ってくる。志村さんはもちろんだし、雨宮長徳さんと実(まこと)さん父子(現在の長兵衛山荘の経営者、雨宮弘樹さんの祖父と父)、また、ドイツ人のハンス・シュトルテさん、イギリス人のバートラム・シェリングさんも大菩薩館と結びつく懐かしい人々である。

まず、志村恵男さんから始めよう。

私が最初に大菩薩館に泊まったのは昭和28(1953)年11月20日の夜。翌日に小金沢連嶺を縦走するというと、志村さんは初の顔合わせながら、ずいぶん心配してくれた。

「ここんところ、あそこを歩いたという人は聞かない。道は笹をかぶってわかりにくいところもあるだろう。もし、道をはずしても、絶対に左の小金沢に下りてはいけない。そこは、まず出られない深い谷だ。右側の日川なら、こっちはなるい谷だから入り込んでも心配はない。」

志村さんはこんなことを少々どもり気味の甲州弁でいい、「小金沢へ入れば大変だよ」と何度も念を押した。

幸い、この時はそれほどの支障もなく歩いたが、小金沢山、黒岳の尾根道は今とは比べ物にならないほど細く、判りづらかった。肩口の高さまである笹の密生地では踏み跡も切れ切れだったし、倒木もひどかった。指導標もほとんど見なかった。湯ノ沢峠から初鹿野駅(現在の甲斐大和駅)までは長い長い道程だった。

そして、この初顔合わせから私はなんとなく志村さんと気が合い、以後、大菩薩へ行けば、必ず大菩薩館に寄るか泊まるかするようになった。

次はドイツ人のハンス・シュトルテさん。(注3)

大菩薩館で私をシュトルテさんに引き合わせてくれたのも志村さんだった。多分、大菩薩館に泊まるようになって、幾らも経たないうちだと思う。雨に降られて館でくすぶっていた日、大勢の中学生(高校生だったか)を連れた1人の異人さんがやってきた。志村さんとは旧知の親しげな会話であり、流暢な日本語だ。志村さんの甲州弁よりよほど判りやすい。学生たちが雨具を乾かしながらのひととき、志村さんは「こ、この人は、天狗さんというだ、が、がっこうの、せ、せんせいやっている」と私に説明し、学生の身であるこちらはかしこまって一礼した覚えがある。

後年、その天狗さんであるシュトルテさんと縁あって文通が始まったとき、私が大菩薩館でお会いしたときの思い出を記すと、ひどく懐かしがってくれた。そして、志村さんに女の子が生まれたとき、その名を考えてくれと頼まれ、ごく平凡ながら春子としましたなどという返事をくれたものである。その春子さんも、存命ならば、もう、いいおばあさんだろう。なにしろ半世紀以上も昔の話だ。

なお、シュトルテさんの著書『続々 丹沢夜話』に、「小屋の主志村さんが(故人)が一升ビンを出して大きなコップをいっぱいにして、「天狗さん、甲州ブドウ酒だ、飲まないか」とすすめた。恥ずかしいことだが、ためらわずに飲み干してしまった。おいしかった。それからは甲州ブドウ酒の大ファンになった」とあれば、それも思い出の種になる。志村さんは、そのブドウ酒を誰彼となくすすめ、私が下戸と知りながらも、毎度、コップになみなみとついでくれたからである。冬の寒い夜、炬燵に入って飲む冷えたブドウ酒は抜群の口当たりだが、翌朝、私はきまって頭が痛かった。

志村さんの座右には常に甲州ブドウ酒の一升瓶があったと覚えている。

イギリス人のバートラム・シェリングさんと会ったのは昭和36(1961)年12月18日のことと、はっきり山の記録帳に記されている。もう、この時は館の主は雨宮長徳さんに変わっていた。私も宮仕えの身となり、かつ結婚して家人ともども山を歩くようになっていた。

当時の勤め先は土曜半ドンだった。そこで午後発ちにし、その夜は山のふもとの宿に泊まるという山行も何度かやっている。大菩薩では登山口にある山楽荘に泊まって翌朝早く出れば、日いっぱい遊んでこられた。シェリングさんと会ったのも前夜山楽荘泊まりで早く上へあがったのはいいが雪が降り出し、大菩薩館の炬燵で無聊を囲っていたときだった。

雪の中、日川林道のほうから自転車を押しながらやってきて、「コンニチワ」と館のガラス戸を開けたのがシェリングさんだった。彼はこれから大菩薩峠を小菅へ越して東京へ帰るといい、炬燵でしばらく休んだあと私と家人は峠の向こうの丹波道と小菅道の分かれるフルコンバ小屋まで送っていった。後日聞くと、雪道を自転車で下るのに難渋して遅くなり、小菅の旅館に泊まる羽目になったという。

この時に始まるシェリングさんとの交友は、『山麓亭百話』下巻(白山書房/2001)に「W・ノイスと、その友人B・シェリングさん」として書いたので、詳しくは、そちらをごらんいただきたい。

その頃、シェリングさんは英国大使館の書記官だったが、やがて帰国したのち勤めをやめたという手紙をくれた。そして、ほどなくサイクリング中の事故で亡くなったと奥さんのローマさんから連絡があった。私は英文のお悔やみ状を書くのに四苦八苦だった。

今は、大菩薩館も山楽荘もない。車道が上日川峠を越すようになっては、ほとんどの登山者が日帰りになった。山の上はまだしも、登山口の宿に泊まる人など皆無だろう。山楽荘は一頃、下山してくる登山者相手に風呂を沸かしていたが、それもいつの間にかやめ、今日では建物さえもなくなっている。年寄り夫婦がやっていたが、もう、とっくの昔にその2人も亡くなっているに違いない。

過日、大菩薩館の廃墟を見てから、私は、こんなふうに昔を想うことが多くなった。これも、私自身が歳をとったということかも知れないと思う。                             
                                                         (2010.3.12)

注1  昭和7年11月28日発行の日付のある『霧の旅』第14年第40号掲載の松井幹雄「大菩薩近感」だが、その文中にある「10月28日」は、翌月末の発行の会誌に載せるには日が近すぎないかという疑いもあろう。しかし、同紀行文の勝縁荘に関しての記述を読むと、大菩薩館は勝縁荘と同じ昭和7年に出来たとしてよいと思う。

注2 私が大菩薩に通っていた頃は、夜行日帰りの登山者が多かった。早朝塩山に下りると駅前に数台のバスが待ちうけ、大菩薩7割、乾徳山3割の登山者をさばいていた。大月で三ツ峠山、塩山で大菩薩と乾徳山へいく人たちを下ろすと超満員の土曜日夜の夜行列車もけっこう空席が見つかるようになっていた。

注3  1913年ドレスデン生まれ。高等学校卒業後、イエスズ会に入会。1934年来日、東京で日本語と哲学を学ぶ。1939年神戸の六甲中学校に赴任、山岳部を創設。1941〜45年東京、広島で神学を修める。1945年六甲中学校に戻る。1947年学校創立と共に栄光学園に赴任、生徒指導部長、副校長、山岳部長を務める。1982〜86年カトリック磯子教会主任。1968〜92年丹沢自然保護協会副会長、のち同顧問。著書『丹沢夜話』『続 丹沢夜話』『続々 丹沢夜話』(有隣堂/1983、91、95)。以上は『続々 丹沢夜話』の略歴欄から抜粋。シュトルテさんは2007年8月に94歳で亡くなった。                    

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