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横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠


        大石峠 
付・島田巽さんのアルバム

御坂山脈のほぼ真中、大石峠は標高1500メートルほどで、北の芦川の谷と南の河口湖畔の大石とを結ぶ峠道が越している。この峠道は御坂の山を歩く場合の登路下山路としてよく辿られ、私も何度か上下してきた。登りついてはほっと一息ついて腰をおろし、下るときには最後の休みはここで腰をおろして、私の好きな峠の1つである。富士の眺めが抜群の、その草地状の小平地がなんとも嬉しいところだ。

私が最初にこの峠に立ったのは1975年の1月19日、望月達夫さん、高木茂子さん、それに山田哲郎さんとご一緒して河口湖側の大石から登ったときであった。

当時、望月さんは山中湖畔に別荘を持っていて、前日はそこに泊めてもらった。そして、その翌日の計画は大石峠に登ったのちに尾根を東北に黒岳までたどり御坂峠から河口湖側に下るというものだったが、大石峠へ登りついた時点で高木さんが雪にひえて足が冷たいといいだした。そこで望月さんがいうには「僕はここから高木君と芦川へ下って帰るから、君たち3人は予定通り黒岳までいってくれてもいいよ」。

いまから30数年前となると、山田さんにしろこちら2人にしろ、まだまだ若かった。内心、せっかく大石峠まで登ったのに、そのまま反対側へ下ってしまうのはなんとなく釈然としなかったところなので、望月さんの提案をありがたく受けることにした。

山の記録ノートを見ると、峠で望月さん高木さんと別れたのが11時少し過ぎ、新道峠から先はけっこうなラッセルになって黒岳山頂が2時半、御坂峠から下って御坂トンネルきわのバス停留所についたのが3時半と記してある。雪があったにしてはなかなかの速さと感心するのは、その後の長年月がしからしむるところであろう。今年は2009年、望月さんが亡くなってからでも、すでに7年がたつ。

なお、この日、バス停留所に下りつくと、そこには坂倉登喜子さんをはじめとするエーデルワイスクラブの一行が先着で、今日は御坂峠から黒岳に往復してきたとのこと。長くバスを待って寒いからと、皆さんできゃきゃと馬跳びをやっていた。

坂倉さんは昨2008年12月に98歳で亡くなったが、お生まれの1910年から数えると、私たちがお会いしたときは、まだ65歳とお若かったのだ。緑のベレー帽とニッカーズボンの、これぞ坂倉登喜子さんという出で立ちだった。 

その後の1988年1月、大森久雄、泉久恵、工藤隆雄のお三方とこちら夫婦とで河口湖側の中沢から新道峠へあがり、尾根伝いに大石峠へと歩いたこともあった。2日間の山行で、初日は新道峠から大石峠まで歩いて芦川へ下り、なじみの民宿「芦川荘」に泊まったのち、翌日は再び大石峠へ登り節刀ヶ岳をこし鍵掛峠から根場へと下った。工藤隆雄君は1953年生まれのライターで、山関係でも『平成富岳百景』『ひとり歩きの登山技術』などたくさんの著書がある。ご存知の方も多いだろう。



この時の山行で覚えているのは、鍵掛峠を下りかけたところで時ならぬ酒盛りがはじまったことだ。大森さん、泉さんはいけるくち、工藤君も「下地は好きなり御意はよし」で、さらに彼がメザシを焼きだせば、ちっとやそっとでは腰があがらない。真冬の寒い中、なすこともなく、ただ座して待つ下戸のこちらは体が冷えるいっぽうで、ついには足がつりだして痛いのなんのって。「あの時は災難だったね」と家人と、いまでも話の種になる。




    上の3枚は1988年1月の撮影。いずれも大石峠にて。

さて、その時からでも約20年になるのが今回の大石峠で、先の5月16日に森山の会の折に芦川の谷から登った。予報どおりのあいにくのお天気で、雨粒が落ちてこないだけでも幸せという日だったが、新緑の雑木林はきれいだった。峠ではかろうじて河口湖が見える程度で、これが見えてこそ大石峠という肝心の富士山は影も形もなかった。

なお、この2日前の14日、長沢君は木曜定例山行で地元の人たちとやはり同じ芦川からの峠道を往復し、かつ大石峠からは節刀ヶ岳にも足を伸ばしている。掲示板に載るそのときの写真を見れば、五月晴れの下のなんとも楽しそうな大石峠での憩いのひと時で、この森山の会山行とは大違いの好日である。悔しいの一言しかないが、いま、それをいえば、おそらく長沢君は「参加の方々の精進の差です」と答えるに違いない。

さて、今回の大石峠はいくら新緑がよいといっても眺めは皆無で満足度は4くらいに終わった。そこでこの秋に、もう一度いってもいいなと思う。紅葉の雑木林をくぐって峠に登りつき、目の前にぱっと新雪の富士山が大きな姿を現した瞬間は、さぞかし大感激だろう。

長沢さん、紅葉が最も美しい日を見定め、あらためて大石峠にいってみようではありませんか。加えて、ぜひ、節刀ヶ岳にも登ってきたいですね。よろしくお願いします。



ところで、この森山の会のロッジ泊の夜、歓談の席で島田和男さんから御父上の島田巽さんが残されたアルバムを見せていただいたのは大変な喜びだった。

日本山岳会の古い会員(1930年にお歳25才で入会、会員番号1227)だった島田巽さんのアルバムに収められた写真の数々。1935年に始まる山岳会の山行、集会などの写真1枚1枚を見ていけば、おのずと現在の山岳会との違いを如実に思い知らされるのだった。では、その天の雲と地の泥ぐらいの大きな違いとはなにか。いろいろあげたいが、しかし、ここは、それらを記すところではないだろう。

それはそれとして、その島田さんのアルバムの写真には、槇有恒さん、三田幸夫さん、松方三郎さんなど、恐れ多くて側へも寄れなかった長老方が綺羅星のごとくに写っているのはもちろんだが、なかには私も山にご一緒したことのある日高信六郎さんや藤島敏男さんのお顔も見えて、しばし懐旧の想いにとらわれた。

1974年2月に島田さん、藤島さん、それに織内信彦さんと大菩薩に登った時の、私が写した写真までが貼ってあり、あぁ、それも、もう35年も前のことになるのか。


    1974.2 島田巽氏、右は藤島氏と 大菩薩にて 横山厚夫撮影

また、藤島さんのポートレート2枚が並べて貼ってあるページの、ことに1948年とあるお歳52才の折の写真を見れば、「えっ、これが藤島さん」とわが目を疑う若々しさ。私が大菩薩や西上州にご一緒した頃の、一見好々爺然とした藤島さんとは別人のようで驚くほかはない。



思うに、島田巽さんのこのアルバムは日本山岳会にとっても、その歴史の1駒1駒を留めたまことに貴重なものといってよいだろう。

例えば、初期の英国のエヴェレスト登山隊の隊員だったサマウェルが夫人ともども戦後に来日した折の歓迎パーティ(1961年8月24日夜)の1枚など、私は見飽きることがなかった。往年の高名なエヴェレスターとその奥方を囲んで槇有恒、松方三郎夫妻、三田幸夫、藤島敏男、成瀬岩雄、深田久弥、日高信六郎、浜野正男、神谷恭、交野武一、松田雄一、そして島田巽の錚々たる方々。


             写真をクリックすると拡大


私はため息をつくくらいに感じ入ってしまった。

大石峠往復を終えての一夕、私は島田さんのアルバムで多くの懐かしい方々にお目にかかれて幸せだった。

補 記

サマウェル夫妻が来日した折の報告は日本山岳会『会報』217号(1961.10)に松方さんが書いているが、ともに北八ッに登った折の写真もそえられ、そこには藤島敏男さんのお顔も見える。思わず「藤島さん、なかなかですねぇ」といいたくなるダンディぶりだ。なお、上記の文中、藤島さんを「一見好々爺然」と書いた。その「一見」と「然」が少々失礼かも知れないが、なにしろ相当な毒舌家(ご本人は薬舌とおっしゃっていたが)であり、ただの好々爺ではけっしてなかったからである。


『会報』217号の「日本のサマウェル夫妻」(松方三郎)に添えられたもの。この写真は交野さん自身も写っているゆえ、シャッターは居合わせた登山者にでも押してもらったのだろう。 

サマウェルについては「松方三郎エッセー集」(全5巻 築地書館)の『山で会った人』『山を楽しもう』に関連の文章が収録されている。『山で会った人』では「遠来の客」、『山を楽しもう』では「S老人」「二人のエベレスト男」がそれらである。

Somervell,Theodore Howard (1890〜1975)のカタカナ表記にはサマヴェル、サマベル、ソマーベルなどいろいろあるが、ここでは松方さんが『会報』217号に書いたサマウェルにしたがった。

アルバムの写真の複写・転載は島田和男さんのご好意を得ました。厚くお礼申しあげます。

(2009.6)

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