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横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠


白山と春日沢ノ頭、付け加えて『森井書店古書目録』







白山にて




森井書店目録より























77.12 釈迦ヶ岳


2005.12 鳥坂峠














昨年(2005年)暮れの2日間、ロッジ山旅一泊で I さんのリハビリ山行に同行することになった。

一日目は、高尾発8時44分の小淵沢行きに総勢7人が乗り、下車はロッジ山旅のオーナー長沢君の車の待つ竜王駅。あとは亀沢川を獅子平まで遡ってから白山と白砂山に登った。

この二つの山は御岳昇仙峡の奥の羅漢寺山から南に伸びる尾根上にあり、一般には羅漢寺山を出発点として南下する途中で頂を踏んでいくのが順当だが、今回は西側の獅子平から往復の、つまみ食い的なお手軽コースとした。短い冬日の、そしてI さんにもぴったりの計画で、「なんなら、I さんは白山止まりにしておけばいいよ、行きたい者だけが白砂山へ行ってくるから」という仕組みになっている。

お天気はよく、白山の名の通りの白砂青松的山頂にたてば、南アルプスも惜しみなく白銀の峰を連ねて皆さん大満足。I さんはここから長沢君ほかがエスコートして戻り、残りの数人が白砂山まで足を伸ばした。

そのあと、ロッジ山旅に着いてのこと。

長沢君が「つい先日、こんなものがとどきました」と見せてくれたのが、山の古書でもよく知られている東京は本郷、東大正門前にある森井書店の目録「2005年12月 NO・30 山岳書特集号」であり、なるほど長沢君が「今回のは望月さんの本がほとんどですよ」という通りに、これはお金がかかったろうと思われる豪華な大判の目録には故望月達夫さんの蔵書が充満していた。

びっくりしたのは本ばかりでなく望月さん宛の著名な山の人からの書簡も売りに出ていることで、目録第一頁には、深田久弥さんが望月さんに出したものまで載っているではないか。

「深田久弥書簡・葉書一括」とあって「書簡11通封筒付 葉書23枚 雑誌「山と溪谷」2003年3月号(特集・深田久弥の世界)、写真共 この書簡はすべて『読み、歩き、書いた』に収録されている」との注釈のつくもろもろが、なんと945000円(思わずゼロを数えた)。02年8月に望月さんが亡くなってから3年にして、ご遺族がその愛蔵の山岳書や坂本直行さんの絵をはじめ望月さん宛の手紙まで処分されたのかと、私は、うーんと唸るばかりだった。

望月さんは卒無し居士ともいわれるほどに、万事に几帳面な方だった。他人からきた手紙類も差出人別に袋に入れて整理保管されていたのを、私はこの目で見ている。それらが、いま、この古書店の目録に、私のなんとも判断しかねる価格で載っているとは。木暮理太郎、槇有恒、串田孫一、加納一郎、今西錦司、藤島敏男ほかの方々からの書簡もあって、いったい、これは、どうなっちまったんだろう。私は、望月さんとご一緒した山行の数々を思い出しながら、天を仰ぐ気持ちだった。
     

さて、ロッジ山旅に一夜をおくった翌日も、まずまずのお天気に明けて、ああだ、こうだの評定のあげくは、甲府盆地の南側にある春日沢ノ頭辺りにいってみようということになった。さらに長沢夫人と令嬢の渓ちゃんも加わって、アプローチのドライブは新鳥坂トンネルの芦川側の出口まで。

思えば、私がこの辺りの山や峠を歩いた最初は望月さんとご一緒したときで、それは1977年の12月半ばだった。ほかには今日も行を共にしている大森久雄さんも同道で、私たち夫婦との四人は鶯宿峠を振出しに春日沢ノ頭を越えて鳥坂峠まで尾根を伝い、峠から芦川の谷に下り上芦川の芦川荘という民宿に泊まっている。二日目は釈迦ヶ岳に登り、御坂峠から河口湖側へ下った。

そして、いま、道々、大森さんのいうには「あのときのことは、ほとんど記憶にないなぁ、こんなところだったかしら」。無理もない、もう、あれから三十年近くの年月がたっている。私も、芦川荘に泊まった夜の雑談などは、まぁ記憶のうちだが、春日沢ノ頭や鳥坂峠辺りのこととなると、さっぱりだ。でも、総じてあれはとても楽しい山歩きだったと忘れがたく、私は日ならずして「釈迦ヶ岳」という一文にも書き残している。もし、よろしかったら『静かなる山』(茗溪堂/昭53)をお読みいただければと思う。

それはさておき、Iさんは途中までだったが、春日沢ノ頭を本日の打ち止めとして、わりに早い時間に山をおり、長沢君の車で勝沼駅まで送ってもらって帰途についた。乗ったのは15時57分の高尾行きであり、まだ日暮れには間のある明るいうちだった。
    

その日、私たち夫婦は荻窪の駅ビルのトンカツ屋で夕食をしたあと、夜の7時頃に家についた。そして、風呂にはいって一落着きしていると、先ほどの長沢君から甲府の山村正光さんが今日亡くなったという電話があった。

山村さんはずっと病床にあり、このところ少し悪いと聞いていたが、今日の今日とはと驚いた。もしかすると私たちが春日沢ノ頭辺で甲府の街を見下ろしていた頃に亡くなったのかも知れないし、それに帰りの車中で山村さんの噂話をしていたのだから、余計、なんともいえない気持ちになった。

1971年3月21日、深田久弥さんが茅ヶ岳で急逝されたときには山村さんも一行のなかにいて、救援を呼びに駆け下るなど大活躍をしている。また、毎年、金峰山麓の金山で催される木暮祭も山村さんの大きな努力があってこそだった。私が山村さんと親しくなったのは深田さんの没後まもなくの頃だったと覚えている。甲斐駒前衛の雨乞山など何度か山へもご一緒したし、『車窓の山旅 中央線から見える山』(実業之日本社/1985)の出版記念会に呼んでいただいたこともある。そのときの山村さんご夫婦のとても嬉しそうだった様子が、山村さんの訃報を聞いたときに第一番に思い出された。

訃報から一日おいて、山村さんの告別式が甲府のさる式場で行なわれた。くっきりと山の実によく見える日で、南アルプスは真っ白、秩父、大菩薩も素晴らしかった。家人とそうした山々を車中から眺めながら「これが本当の『車窓の山旅』だね」といい、今日はいかにも山村さんの告別式にふさわしい日和だと思った。

甲府駅では、私と同じように山村さんと親しく山に登り、また、実業之日本社にいて『車窓の山旅』の編集にたずさわった大森久雄さん、それに深田久弥さんの次男の沢二さんほかと待合わせて式場にいった。

沢二さんと会うのは久しぶりだった。式の始まる前の雑談で山村さんや望月さんの思い出話が出たついでに、つい三日前、ロッジ山旅で見せてもらった古書目録の深田さんから望月さん宛の書簡などが一括95万円という話をすると、沢二さんはなにもいわず、ただ憮然としかいいようのないお顔になった。

さもあろう、さもあろう。私にしても、うーんと唸るしかなかったのだから。                       (2006・1)


























































春日沢の頭


















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