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 横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠
 
倉岳山

先の1月15日、日帰りでロッジ山旅主催の木曜定例山行に参加して倉岳山に登った。

朝9時に大月駅で拾ってもらって秋山川の谷から穴路峠、倉岳山、立野峠と歩き、帰りもまた大月駅まで送ってもらった。

この倉岳山は同じ穴路峠経由で登るにしても、中央線の鳥沢駅から歩くのが普通であり、反対側の秋山川側から登ろうと考える人はほとんどいないだろう。秋山川の谷には上野原駅や都留駅からのバスが入るにしろ本数が少ないうえに時間がかかり、すこぶる交通の便が悪い。私もこの谷筋を歩くのは年に1度あるかないかであり、近年では2年前の3月に秋山二十六夜山の帰りに立野峠を越えたきりである。



そんなわけで、今回は久しぶりの秋山川の谷からの倉岳山登山になり楽しかった。「道志・秋山、丹波・小菅」と、同じ山梨県のうちでもことさらに辺境のようにいわれる谷筋だが、近頃は家々も今様になり、私が最初にこの辺りを歩いた時代とはずいぶん異なったたたずまいになっている。

それもそうだ、あれからは、もう50年以上もたっているのだから、変わって当然である。冬には未舗装の路が轍のままに凍りつき、すこぶる歩きにくかったものだが、いまは立派に舗装されて街の道路と少しも変わらない。


       2009年1月15日 無生野から穴路峠へ(長沢撮影)

穴路峠の登りにかかって、長沢君がいう。

「2004年の1月、やはり倉岳山にご一緒していますが、あの時が定例山行の始まりだったのです。あれから5年、日のたつのは本当に速いですね。ところで、横山さんはこれまで何回ぐらい倉岳山には登っていますか。」

「さてね、どのくらいになるだろう。学生の頃からだから、けっこうな回数登っていると思う。調べてみましょう。」

帰って、山の記録帖を見た。

すると、最初に登ったのは1957年2月のことであり、数えて今回が15回目の倉岳山登山になるのが分かった。

思い出せば、確か、この山へは尾崎喜八さんの「秋山川上流の冬の旅」(『雲と草原』収載)を読み憧れて登りにいったのだと思う。ずいぶん気取った文章だったが、それだけに初な学生の身には魅かれるところがあって、いまでもきれぎれながらそらんじている個所もある。



それはそれとして、記録帖には90年代の後半から毎年のように冬に登ったことが記されているが、それらのほとんどは先年亡くなった寺田政晴君と一緒の、あえて雪の多そうな日を選んで出かけていった山行である。彼とは2万5千図を見ながら道のあるなしにかかわらず、「雪の多い日を狙い、この尾根を登ってみよう」と足繁く出かけたものである。標高は1000メートルもなく、たいした雪山ではないが、私たちだけのラッセルで登るのは楽しかった。

そうしたうちの1度だけだが、あまりの雪の多さにさすがの寺田ラッセル車も力つきて、敗退したことがあった。3人雪まみれになって、ほうほうの体で引き返したのだが、いま、寺田君というと、この時の奮闘ぶりも目に浮かんでくる。


  1998年1月17日の倉岳山北尾根。
  寺田君の大奮闘にもかかわらず敗退した。以下同日。(横山撮影)


以下のような倉岳山だった。

98年の1月17日、都心にも結構な雪が降った翌日、「今日は面白そうだ、北尾根を末端から登ってみようよ」とは車中の弁。しかし、鳥沢駅に降りて辺りを見回してみると、少し多すぎるのではなかと心配になる雪景色だった。

小篠の集落までは雪掻きがしてあったが、その先は貯水池の堰堤を斜めに登るしょっぱなからラッセルになった。

貯水池の脇から左手の尾根に遮二無二登ったが、そこまでの雪も膝上まであった。「雪の明日は裸虫の洗濯」通りの快晴で、日差しは雪の照返しもあって強烈きわまりない。3人、大汗をかきながらラッセルに終始した。



この年、1948年生まれの寺田君はちょうどお歳50、こちらは2人とも四捨五入すれば70になる老夫婦なのだから、ラッセルを変わるといってもほんの10分も続かない。結局は寺田君ひとりに頼る羽目になった。尾根筋は腰近くまでの深雪で、いくら彼ががんばったにしても遅々として進まない。

途中、これは鹿だろうか猪だろうか、尾根筋を縫いながらのラッセルがしてあって、そこだけは楽になった。長年、この辺の山を歩いているが、兎にしろなににしろ動物と名のつくものを見たことがない。だが、これは正しく四つ足獣が通った跡に違いない。それも兎などよりは、もっと大きな奴だろう。そんな獣がつい先ほどここを通ったのか、いいなぁと思うと同時に、ラッセルをもっとしておいてくれればよいのにと残念だった。

みな、尾根の半分も登らないところで力尽きた。「まだ大丈夫です」と強がりをいっていた寺田君も昼を食べ終わったところで、ついに「今日は下りましょう」となった。

下りとなれば、登りとは違って深雪を泳ぐのも面白い。いまは雪まみれになるのも楽しいきわみだった。見下ろせば、下の道を引き返していくパーティーもあって、「あの人たちも登れなかったようだね」と、なんとなく気をよくした。



なお、このあとの2月半ばに近所の大学生の若松伸彦君と出かけたが、雪は格段に少なくなっていて、なんの苦労もなく登ることができた。

寺田君とは99年2月と03年2月に北尾根をはさむ北西と北東の2本の尾根を登ったが、どちらも適当に雪があって楽しかった。

ほかには86年12月に吾妻小舎の遠藤さん夫妻と登ったのも、忘れ難い山行である。 その時は、今回の定例山行で一緒の橋本晨宏さんも同行していた。冬型のよく晴れはしたももの北風の強い日で「こんな日は吾妻の上は荒れ模様だ」と遠藤さんがいったのをよく覚えている。

このような思い出を残す倉岳山だが、これからも登りにいくだろうし、橋本さん、長沢君と一緒の日もあるだろう。山にも友にもよろしくとお願いしておきたい。
                              (2009.1)
              

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