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横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠 
 
大蔵高丸
  
新宿発二十三時四十五分長野行、翌朝三時初鹿野下車。甲斐路の闇はまだ、冷え冷えとした早春の夜気をあびて、煌々たる発電所の燈火を見送り、日川ぞいに行くみちは、やがて、景徳院の暗い森蔭。夜は漸く白んで、左には田野鉱泉のしつとりとうるんだ灯。爪先上りからゆつくり降つて、土屋惣蔵片手斬の遺跡。トンネルを抜けて、水車小屋からサガシオ分岐。みづみづしい新緑の下にせせらぐ大蔵沢の右岸づたい。 (中略)  ミソサザイとヒガラ、ヤマガラの囀る道をやがて焼山部落、貧寒な山村で、自然との痛ましい闘争が旅人の胸をつくが、ここで富士を眺め乍ら朝食といくのも良い。ここから湯ノ沢峠への径は、間違い易いので有名だが、焼山最奥の一軒家をすぎてから、徹底的に沢にフオローして行けばいい。白樺樹林に入れば、もう湯ノ沢峠の頂上は近く、顧る南アルプス堂々の銀嶺が燦と輝く。源流近くなつてから左側のガレを登ると、ボサコギ暫しで湯ノ沢峠。明るくのびやかな、ポエジーとペーソスの漂う気持よい草原だ。一休みしたらスズタケの密叢をわけて、右へ大蔵高丸への急登。苦しいのも束の間で、やがて大空がぽつかり割れて、大蔵高丸の明快な山頂。富士、三ツ峠、御坂、南アルプス、雁腹、大菩薩、道志、丹沢、さては、奥多摩の山々まで、三百六十度の広茫無辺の大展望は、暫し、息をもとめさせる。明るいカヤトの上で、四肢を充分にのばし、豪華な神々の饗宴に酔うべきだ。 (後略)

初鹿野(五〇分)田野(一時間二〇分)焼山(二時間半)湯ノ沢峠(四〇分)大蔵高丸(後略)



『山と溪谷』昭和26(1951)年5月号の特集は「中央沿線の山々」で、上はそれに載る案内「大蔵高丸・大谷が丸」の一部である。私が1953年の8月末、最初に大蔵高丸へいったときには、この案内が頼りだった。

高校で同窓だった館山盛と関口昇の2君を誘い、夜行列車でまだ夜の明けない初鹿野駅(今の甲斐大和駅)に下車。焼山の集落まではなんということもなかったが、その先が案内にも「迷い易いので有名」とある通りに皆目わからず、散々迷った挙句、湯ノ沢峠までも行けなかった。そこで1週間後の9月初めにあらためて出かけた。

同行はやはり館山と関口。前回に懲りて焼山最奥の家でくどいくらいに道をたずねた。これから山仕事に出かけるという40がらみの主人は、家の前で指差しながら「あの2本ある大きなモミの木を目当てしていけばいい」と教えてくれた。2本並んで黒々と天を突くモミの大木が、いまも目に残る。

そうした教えどおりに踏み跡もわずかな沢筋をたどり、今度はなんとか湯ノ沢峠に辿りつくことができた。 

だが、その先も「スズタケの密叢」そのままに道などないに等しかった。頭から潜りこんで掻きわけ掻きわけ、やっと大蔵高丸の山頂に登った。ところが一休みもしないうち、瞬時に濃霧に閉ざされ、おまけに雨が降りだした。それまでの道捜しと藪漕ぎでいい加減気勢をそがれていたせいもあり、もう、こうなっては戻るほうが無難と弱気になった。だが、視界皆無の雨と霧の中で引きかえす方向がわからなくなり、皆、青い顔になった。

湯ノ沢峠はどちらの方角か。びしょ濡れになりながら背丈を越す笹薮で右往左往しているうちに、一瞬、雨雲に隙間ができ、湯ノ沢峠を介して高い白谷ヶ丸の一角が見えた。天の助けでなくてなんであろう。これで、そちらへ下れば湯ノ峠だと判断がつき胸をなでおろした。

帰り道の途中、行きに立ち寄った家で火に当らせてもらい衣服を乾かした。当時はまだ電灯もなく、ずいぶん貧しい暮らしのようだった。それでも囲炉裏の火をかきたて暖かいお茶を飲ませてくれて、とても親切だった。主人は確か佐藤春雄さんといった。帰ってから100円ずつ出し合い、世話になったお礼にと羊かんを送ると丁寧な礼状がきた。






上の写真は1989年11月30日に湯ノ沢峠、大蔵高丸、大谷ヶ丸、曲沢峠と歩いた折のもの。このときはすでに湯ノ沢峠までの車道ができ、初鹿野駅(まだ甲斐大和ではなかった、改称は1993年)からタクシーを使った。西風が強く寒い日だったが、山はよく見えていた。山頂で赤いザックを背負った立ち姿の人物は寺田政晴君。昭和26年当時の『山と溪谷』誌は、現行のそれよりも二回りも小さいA5判だった。この表紙絵は宮永岳彦による。


その後、この辺りの山にはずいぶん通った。小金沢連嶺縦走の下りなども含めて、湯ノ沢峠の焼山側の道は少なからぬ回数を歩いている。しかし、登るにしろ下るにしろ初鹿野駅から峠までの間は実に長かった。上記の『山と溪谷』の案内にも所要は4時間40分とある。ほとんど寝ていない夜行列車だと、この長丁場が辛かった。そこで会社勤めの身になってからは、土曜日の午後に家を出て、その夜は田野鉱泉泊まりにしたこともあった。田舎の湯治湯そのものの石川館、石黒館の2軒があり、私が泊まった頃は1泊2食付で600円か700円くらいのものだった。

つい、昔話が長くなった。
ここからは、先の9月の半ばに登った大蔵高丸に移ろう。



夜もそう早くない時間に「明日、山へいこう」と電話をかけてくるのは、昔・望月達夫さん、今・長沢君である。

今回の大蔵高丸も、そうだった。毎夕食後7時半から始まるわが家の映画劇場が佳境にはいったとき、「明日は天気がよさそうですから」と長沢君から電話があった。家人が「いいわよ」とうなずけば映画は即中止、ばたばたと支度が始まった。おまけに、明朝予定の洗濯を今夜のうちにやってしまうと、時ならぬ時間に洗濯機がうなりだす始末。つくづく山登りとは大変ものだと思った。

吉祥寺と三鷹の間で信号機故障があったもかかわらず、甲斐大和駅での待合せは30分の遅れですんだ。10時少し前に「ロッジ山旅」号に打ち乗れば、その速いこと速いこと。景徳院、田野、嵯峨塩・焼山分岐と駆けあがり、40分ほどで湯ノ沢峠への歩道入口となった。長沢君のいうことには「湯ノ沢峠まで乗り付けては、大蔵高丸なんか1時間もかかりません。せめて今日はここから歩きましょう」。

それにしても、延々と歩くしかなかった峠道がこんな車道になるとは、あの頃、誰が想像したか。「今昔の感に堪えない」とは、正にこのことをいうのだろう。世の中、変わった変わった。「あれを目当てに」と教えてもらったモミの大木など影も形もない。

焼山沢ぞいの細道は荒れていた。いまは大方の人が車で峠まであがってしまい、歩く人はごく少ないのだろう。しかし、それがよかった。石を跳んで沢を渡り、朽ちた丸木橋は慎重になどとは、かつての峠道を思い出させてくれる。流れが細くなるにつれ、濃い青のトリカブトの花を多く見るようになった。小1時間の所要。

避難小屋が現れれば、はや湯ノ沢峠だ。「峠からの道が付け変っていると聞き、確かめたいと思っていたのです」とは長沢君の弁で、「湯の沢峠のお花畑」と記した標柱が立つコブを越えた先は、なるほど、これまで私の歩いた道ではなかった。一直線に笹薮の中を登っていた従来の道には止めがしてあり、新しく西側の山腹を斜めにあがる幅広い道ができていた。1、2度折り返していったん大蔵沢の源頭尾根にあがった後、左に登るとすぐに山頂だった。

雲が多くなって、やっと富士山の上のほうが薄く見える程度。背後の白谷ヶ丸もかくれた。「広茫無辺」、南アルプスほか数多の山々が見えてこその大倉高丸山頂も、今日はなんとなく生彩がなかった。それに草原に立ち入らないようにと張られたロープも無粋なものだ。



食事をし、30分ほどして引きかえした。道々思うに、大蔵高丸もいまや昔の山ならず、山頂周りの林が密になって、記憶に残る闊達な感じがほとんど消えている。まるで別の山を歩いているみたいだった。



補 記

上記『山と溪谷』の「大蔵高丸・大谷ヶ丸」の案内の筆者は小林章と記してあるが、私はその名に心当たりはない。それにしても相当な美文調であり、なんだか尾崎喜八さんの紀行文「大蔵高丸・大谷ヶ丸」の向うを張っているようでおかしい。湯ノ沢峠の「ポエジーとペーソスの漂う気持よい草原」、大蔵高丸山頂の「豪華な神々の饗宴に酔うべきだ」などとは、なかなかのものである。しかし、いま、こんな形容詞やら修飾やらが一杯付く長たらしいコースガイドを書けば編集者は嫌な顔をし、「もっと即物的な文章にしてください、世の中忙しいのですから」というのではないか。近頃、コースガイドを多く書くようになった長沢君に聞いてみたい。

最初、大蔵高丸に同行した1人、関口は「下山事件」担当の刑事の息で、学校を出たあと主婦の友社に入り、その編集をやっていたが、40代の早くに亡くなった。館山は今も元気に山へ登っていて、このホームページに載せた「三峰山、再び」の今年8月の山行の折にも同行している。なお、彼は2度目に登ったとき、藪の中で立派な鹿の角(ただし片方のみ)を拾った。いまでも、あのときの命拾いの記念として、大事にしているそうだ。

                                 (2008.9)
                

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