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 横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠 
   
番外篇・望月達夫さんのアルバム
 







望月さんのアルバムから、
山頂で至福のひとときを過ごす
望月さんの写真を集めてみた
            (長沢)








































 





























整然と貼られた写真






















藤島敏男氏(横山氏撮影)



































今回の「ロッジ山旅の山と峠」は、これまで書いてきた紀行文まがいとはだいぶ異なるので、番外篇としておきました。題して「望月達夫さんのアルバム」です。
       


確か一昨年(2005年)の暮れ近くだったと思う。ロッジ山旅で1冊の古書店の目録を長沢君が見せてくれた。東京は文京区本郷、東大正門近くにある森井書店という古書店の販売目録であり、「2005年12月 No.30 山岳書特集号」と銘打ってある。

さすが山岳書の収集家として知られた長沢君だけのことはある、こんな豪華な目録が無料で送られてくるとはたいしたものだと感じいっていると、長沢君がいうことには「今度のこの号に載っている本のほとんどは望月さんの蔵書だったようですよ」。

どれどれと手にとって開けば、まことにその通りであり、さらには本ばかりではなく、望月さんのところへ来た手紙の類、たとえば深田久弥や今西錦司、木暮理太郎などといった方々から来た封書、葉書などが結構なお値段付きで載っているし、何点かの「望月達夫旧蔵」と断りのある坂本直行さんの絵までが、これもまたお安くはない値段とともにカラー写真で載っている。

望月さんが亡くなったのは2002年の夏の終わりで、ついこの間のような気がしていただけに、「えっ、これは」と驚いた。

それぞれの家にはそれぞれの事情があり、第三者がとやかくいうべきことではないが、それにしても、親御さんの蔵書を処分するには少し早すぎるのではないかと思ったことは事実だ。望月さん生前の頃、私は何度かお家に遊びにいったことがあり、そうした本が整然と書棚に並んでいる書斎を見ているだけに、なおさらそんな気がしたのかもしれない。壁に飾ってあった直行さんの絵にも覚えがある。本も絵も望月さんの愛着ひとしおのものであったに違いないが、それらがいま、こうして……。

もっとも、持主が亡くなり場所ふさぎでしかなくなった蔵書などは、みな売り払ってしまうのが一番よろしいと聞いている。そうすれば、いずれ古書店の書棚に並ぶなり目録に載るなりして、本当に読みたい人欲しい人が買うからだというのである。人にあげたり、学校や図書館に寄贈しても結局は死蔵されるか、あるいは、そっと裏で処分されしまうのが落ちなのだそうだ。一理ある。

よって、私が目録を見て驚き、少しばかりさびしい気がしたのは余計なセンチメンタリズムといわれても仕方ない。

しかし、他人から来た手紙の類までもが目録に載ってしまうとは……。

ちなみに「深田久弥書簡・葉書一括」の、書簡11通封筒付き、葉書23枚ほかで94万5千円とあったのには呆気にとられた。後日、その道の人に尋ねると、「おそらく、そんな手紙などは捨てるよりはといって、本を売るついでにみなでタダ持っていってもらったに違いない、つまり、ダンボール箱ごとのおまけなのですよ」ということだ。そしてまた、後々日、94万なにがしのそれらが売れたと仄聞して、私は、もう一度、驚いた。



昨年の秋、思いもかけずに思わぬところから望月さんの山の写真をはったアルバムがどんと私の家にやってきた。たぶん、これも手紙類と同じように「捨てるよりはまし」のおまけ的処分だったに違いなく、古書市などを巡り巡ったあげくの果てに私のところに到達したのだろう。もっとも、これは決してお金を払ってのものではなく、「このままでは、結局、クズヤにいき燃やされてしまうのが落ちだから」と、その消滅を惜しむ人の好意のみでやってきたことを、ここでお断りしておきたい。

アルバムは全部で64冊あった。

望月さんが亡くなったあと、『山岳』掲載の追悼文を書く折に私は望月さんの家へいき、ご遺族から何点かの資料を拝借したことがあった。その折、「ご覧になりたいならばアルバムはこの中です」といわれて、戸棚の中をざっと数えたところ約100冊があった。それからすると、私のところへ来たのは全部ではない。私にアルバムを送ってくれた人も「戦前の商大山岳部時代や深田久弥さんと同行したときの写真がはってある分が欠けている」といっていた。おそらく20何冊くらいが抜けているに違いない。



さて、このアルバムをどうしようか。私は、まず一覧表を作ってみることにした。写真1枚1枚のわきに書き入れられたネームを基に、何年何月、どこの山、写っているのは誰々、という一覧表を作ったのである。

最初の1冊には1967年5月、最後の64冊目には87年6月の写真がはってある。それら望月さんが53歳から73歳までのちょうど20年間にわたる山行の写真を順に見ていくと興味津津、飽きることがなかった。同行者からもらったほかは、ほとんどが黒白写真で、望月さんがリコーの35mmカメラを使っていたのも私は思いだした。

それにしても、なんと心を込めて作られたアルバムであろうか。なにごとも卒無くこなし、藤島敏男さんからは「無卒居士」の異名まで奉られていた望月さんだったが、その無卒さが、これらのアルバム作りには存分に発揮されている。曲がって貼ってある写真は1枚とてなく、ペン書きの説明にしろ書き損のあとは皆無といってよい。集合写真のほとんどには1人1人の名が記してあるのも、望月さんらしい几帳面さだ。また、望月さんは石碑、石仏などに格別の興味をお持ちだったが、そうしたものの写真には、写し取った年号由来などが、みな克明に書き添えられている。並大抵のアルバムではないというのが、私の驚きだった。

たぶん、望月さんは山から帰って現像焼付けにだした写真ができてくると、もう一度山を楽しむ気持ちになって、ひとりにこにこしながら丹念にアルバムにはりネームを書き込んでいったに違いない。それも単に記念写真を片端からはるというのではなく、山の写真集を編集する気分で心を込めて、これらのアルバム作りにいそしんだのだろう。望月さんは長い間、日本山岳会の機関誌『山岳』の編集に携わり、名編集者といわれたが、その力量が存分にこれらのアルバム作りにも生かされている。おまけに見開きごとに写真同士がくっつかないように紙がはさんであり、その紙がデパートの包装紙などの再利用なのも、なにごとにももったいないを是とした、いかにも望月さんらしい。



先に述べたように深田久弥さんの写真こそないものの、望月さんの交友の広さを反映して実に多くの山の人の姿が、これらのアルバムに残されている。

今は亡き藤島敏男、笠原藤七、牧野衛、近藤恒雄、柿原謙一さんなど私も山にご一緒したことのある方々をはじめ、岡野金次郎、槇有恒などの長老方にも、このアルバムでお目にかかることができた。また、山関係の集会の写真も何枚かあって、「オーデル氏レセプション・アメリカンクラブ」「今西錦司1400山記念パーティー・祇園の近海作」「マナスル20周年記念パーティー・グランドパレス」などは歴史的なものいってよいだろう。日本山岳会の各支部や南会津山の会の集会、山行に参加した折の写真も多かった。

望月さんは同じ山に繰り返し登るよりは、その分違う山に行き、できるだけ広く多くの山を知りたいといっていた。ゆえに、このアルバムにも北は北海道、南は九州までの日本全国にわたる山々の写真がはられている。それも名の知れた山ばかりではなく、西上州、阿武隈、安部奥、南会津などの隠れた山々が多く、私は改めて「望月さんは本当にいろいろな山に登っていた」と感心し、さらには「こんなに山にいくなんて、どんな勤め方をしていたのだろうか」「いい歳をして草臥れもせず、よくこんなに出掛けられたものだ」「証券会社の会長まで務められたのだから、お金に困るという人ではなかったが、交通費や宿代にしろ並大抵なものではなかったろう」「奥様がよく文句をいわなかった」などと、変なところにも感心した。



みなそろって簡単な紙ケースに入った縦32×横28cmのKOKUYO/PHOTO ALBAM。その10数枚の台紙の裏表に平均6枚ずつの写真がはってあると、けっして軽くはない。試しに量ってみたら均しで1冊1.5キロもあった。それが64冊まとまると100キロ近い重さになるし、嵩も並大抵なものではない。いったい、猫の額的な我が家のどこに置いたらよいのだろうか。当座、本小屋に入れたが、いまにも床がぬけそうだし、とば口に積みあげたら奥に入っていけなくなった。

副会長を務めて貢献著しく、名誉会員であったにしても、日本山岳会は「そんなものは引き取らない」といっているそうだ。といって、このまま我が家に置くことも難しい。散々迷った末、「まだ、あそこならば置く場所があるだろう」と最後の望みを託してロッジ山旅の長沢君にたずねると、「あぁ、喜んで」と快諾の返事。私はほっとした。

そして、今年の3月初めに遠路、八ヶ岳の麓から車で引き取りに来てくれた。

長沢君は望月さんと面識はないにしろ、「いろいろお話は聞いています」といい、そうした写真のはってあるアルバムには一方ならぬ興味があるようだ。先日、ロッジへいくと一括して収める専用の棚が新しく作ってあった。加えて「山田哲郎さんや大森久雄さん、それに横山さんと一緒の写真もたくさんあって、その頃の皆さんは、お若いでしたねぇ」ともいうが、それは当たり前。

また、先の森山の会のひと時、望月さんといえば二世代ほどの歳の差があって歴史上の人物に当たるような、若い会員の木根康行君までが熱心にアルバムを開いているのを見て、私は嬉しくなった。彼岸の望月さんも、さぞ喜んでいるに違いない、よい落着き場所があってよかったと思った。



長沢君によると、山頂などで写した望月さんの写真の楽しそうなお顔とポーズには、どことなく若い頃に演劇に夢中になっていた人のなごりがうかがわれるという。なるほど、そんな見方もあるのかと私は感心するのだが、それはそれとして、皆さんにも、もし、これからロッジにあって、お暇のときがあったならば、1冊でも2冊でもよいから、望月さんのアルバムを開いてみることをおすすめしたい。

そこには、思わず微笑んでしまうような、人が山に登っているときの楽しさを如実に写しとった写真が満載されている。 (2007.7)                                  

追 記

望月さんは2002年8月末に88歳で亡くなったが、晩年の数年間は病床にあった。山は1993年7月の赤城の黒桧山が最後になるが、80年代の終わり頃からカメラを持たなくなり山行時の写真を写すのをやめていた。その理由は「アルバムがたまっていく一方で、切りがない」とご自分でもいっていた。私は74年2月に万場の今井屋旅館で同宿してから130回ほど山にご一緒し、92年3月の残雪の向山(上越線沿線の藤原湖手前、奥利根国際スキー場上の1323.5m峰)が最後になった。 







































ロッジの本棚に
収まったアルバム












アルバムには多くの石造物
が注釈つきで登場する

















槙有恒氏



今西錦司氏






















望月さんのアルバムに登場する
横山厚夫、康子夫妻、
大森久雄、中村昭の各氏

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